硬かった蕾が柔らかく膨らんでいくのを、久美子はいつも見上げていた。

あの約束の日から、卒業してからも、ずっと。早起きが苦手だったのが嘘のように、
毎朝並木道の桜を見上げている。

ふっくらとした大きめの花をつけた桜は幻想的で、そしてどこか強くもあり、儚くも見えた。











「春のおわりに」











卒業と同時に無くなると思っていたぬくもりは、いまも近くにあった。

それを嬉しいと感じる気持ちもあるけれど。

心は深く、自分で思う以上に・・・切ない涙を溜め込んでいく。





いつかきっと離れていく。

だってあいつは、生徒だから。

一緒に悩んで力になって、そして守り続けることは出来ても。

あのぬくもりを求めることは出来ないから・・・。







強引だったけど、いつもそれはそばにあった。

急に怒ったり。不機嫌な顔をしたり。

かと思えば、とても嬉しそうに笑ったり。

そんなあいつの腕の中にいるのが、当たり前だった。

そこが自分の居場所のような気さえしていた。

生徒であることも。教師であることも。忘れてしまいそうなほどに・・・。

でも、けして消えることはないのだ。

生徒だから、教師だから、こうやってそばにいる。

腕の中にいることなど、許されない・・・・・・。

曖昧に甘えて。

現実から逃げて、ただそばに寄り添ってるだけの二人。

そんなもの、きっと長くは続かない。

きっといつか・・・好きな人を見つけて、あいつは離れていく。



その時私は、笑って見送ろうと思う。



卒業していくその背中に、大きく手を振るように・・・。





大丈夫。



大丈夫・・・。





だってそうやって、生徒達を見送ってきたから。



寂しくても。切なくても。彼らを想えば、笑えた。



未来へ向かう眩しいくらいの輝かしい姿を見るのが、何よりも嬉しかったから。







だから、大丈夫・・・。

















淡いピンクの花びらが春の風に吹かれて、雪のように舞い落ちていく。

暖かな日曜日。テレビでいっていた通り、並木道の桜は満開に咲き誇っていた。

まだ朝の早い時間。

犬を連れて散歩に訪れる人や、老夫婦が時折優しい眼差しで桜を見上げていく。

数時間もすれば、この静かな並木道もきっと人で溢れかえるだろう。



久美子は手に持っていた携帯に力を込めた。

この綺麗な桜を、一緒に見たいと思う。あのぬくもりのそばで、見上げられたらと思う。

だけど今日が過ぎて明日がきたら?

今日このまま約束を破って会わなかったら、明日も会えるかもしれない・・・。



しがみつかないって決めてるのに。

手を振るって決めてるのに・・・。



そんなことを、考えてしまう。





「ホント・・・ダメだよな・・・」



桜を見上げて、久美子は笑った。

淡く儚く舞い散る花びらのように、儚げな笑顔で・・・。



けれど見上げる姿は、どこか強かった。

ふわりとした花を一杯に抱えて、ただ静かに聳え立つ桜の木のように。

しっかりと、立っていた。







生徒を想えば。彼を想えば、笑える。

たとえ約束がなくなってしまっても。電話がなくなっても。あえることがなくなっても。

胸の奥が、痛くても。どんなに泣きたくても・・・。

眩しいくらいに輝いた背中を想えば、私は笑える。





しがみつかないって決めた。

手を振るって、決めたから・・・。





心に強く言い聞かせて、久美子は携帯のボタンを押した。







思えば、初めてだった気がする。

自分から電話をするのは・・・。

最初で最後かもしれないな、と思いながら・・・電話が通じるのを待った。



数秒で、呼び出し音が止まる。



『・・・ねみーんだけど?』



欠伸を噛み殺しながらの声が、耳に届いた。

それは、掛けることを戸惑っていた自分が情けないくらい、なんでもない声。

切なかった胸が、ほっと息を吐く。





その瞬間。





ザザァ・・・と、



強い風が吹いた。







風に揺られ、花びらが擦れあい、宙に舞う。



地面に落ちた花びらも一斉に舞い上がって、淡いピンク色の景色の中、



思わず空へと顔を上げようとした久美子は、視線の隅にその姿を見つけていた。







「お前遅すぎっ!」





揺れる花びらの向こう。不機嫌そうな隼人の姿があった。













「・・・・・・なんでいるんだ?お前・・・」

ずんずんと強い足取で目の前まできた隼人に、久美子は呆然と問う。

隼人は何が不満なのか、思いきり眉を寄せて久美子の腕を掴み、もう片方の手で風に舞い上がった
彼女の黒髪を撫でつける。

髪についた花びらがハラハラと落ちていった。

「・・・・・・?」

何も言わず、じっと鋭く見下ろしてくる視線に久美子は戸惑った。

気まずそうに視線をさ迷わせ、後ろにひこうとする身体を隼人が押し止める。

腕を掴んでいた手に力を込めて、髪を撫でていた手を後頭部に回してぐっと顔を近づけると、
隼人は素早く唇を触れ合わせた。

「っ・・・!」

咄嗟に目を瞑って、久美子は隼人の身体を突っぱねる。

思いのほか、簡単に離れていく。

軽く触れるだけのキスをして、隼人は久美子の腰に腕を回して力を込めた。

赤い顔で見上げた久美子の瞳に、未だ眉を寄せたままの顔が映る。



「・・・電話しないつもりだっただろ?」

「っ・・・」



思わず、ビクリと震えた。

隼人はますます不機嫌そうに眉を寄せるけれど、その瞳の奥は不安げに揺れていた。



「泣きそうな顔して・・・なに考えてた?」

「・・・・・・・・・・・・」



何も言えずに口を噤む。



「・・・俺のことだよな?」



誤魔化す言葉も浮かばず、顔を逸らしてしまう。



隠すことは難しいことじゃない。

けれど、胸に溢れた想いを再び押し込めることは困難で、突然の登場に久美子の心は酷く揺れていた。



そんな気持ちを知ってか知らずか、隼人は軽く息を吐いて久美子の肩に顔を埋めた。



「・・・俺のことなら、べつにいいか・・・」



独り言のように呟いて、抱きしめる腕に力を込める。



「・・・ちゃんと、こうしてられるしな・・・」



続いた言葉に、久美子の瞳が切なく揺れた。











ピンク色の花びらの中、桜の木を見上げるその姿はとても綺麗で・・・

けれど、なぜかとてもその綺麗さが不愉快に思えた。



テレビで桜の情報が流れる度に、視線は携帯に注がれる。

満開の時が。携帯の着信音が鳴る時が。とても、とても待ちどうしくもあり、不安でもあった。

きっと今日だろうと考えてたら全然眠れずに、待ちきれずに来てしまった並木道。

そこで見つけた存在がどんなに嬉しかったか・・・。



けれど満開の桜を見上げる久美子の表情は、とても切なそうで・・・。



それがとても嫌だった。







嫌な予感みたいなものが胸に渦巻いて、淡い桜の花びらと一緒に・・・



その姿も無くなってしまいそうな・・・・・・・・・







そんな気が、していた。