咲き誇った桜は一週間もたたないうちにハラハラと花びらを散らした。



結局あの後。


「・・・やべー・・・ねむい・・・」


「はっ?」


ぎゅうと抱きしめ、ぐぅと眠りそうになる隼人を支えるのが精一杯で、お花見どころではなかった。


ぬくもりに触れて安心したのか、矢吹家に帰ってからも居間で眠る隼人の手は、久美子の腕を離そうとはしない。


久美子もまた、無理に離そうとはせず、ただ静かにそばに寄り添っていた。



そんな二人の様子を、拓は少し不安に思っていた。


出掛けに見た久美子の横顔は切なそうで。


いつもの明るく暖かな空気は、そこには無かった。


帰ってきた頃には隼人も起きていて久美子の様子もいつもと同じだったけれど。


でもその心が深く沈んでいるのを拓は気づいていた。



新しい生活に不安だった二人。


変わらない生活を望みながらも。いつまでも変わることの出来ない心が、鈍い音を立て始める。



軋んでいく心。



二人を見守っている拓の心にも不安な想いが募っていた。














淡いピンクの花を散らした桜の木は、鮮やかな緑色の葉に包まれていく。


久美子は新しいクラスを持ち、隼人は就職活動を開始し、二人の新しい生活が始まっていた。





どんなに会いたくても。どんなに触れたくても。


新しいクラスを持ったばかりの忙しい久美子のことを想って、隼人は我慢することを決めていた。


今までのようにはいかないことなど、よくわかっている。


覚悟もしていた。


けれど実際にそんな時間が来てしまえば、その現実は、隼人にとってあまりに苦痛なものだった。



触れたい。


触れたい。あの暖かなぬくもりに。


あの綺麗な身を抱きしめて。柔らかな唇にキスをしたい。



それは、可笑しいくらいの激しい衝動。


そしてそれに追い討ちを掛ける様に、脳裏に浮かぶ姿。


あの日。桜の中で見た久美子の姿。


切ない表情が頭に浮かぶたびに、不愉快さは、恐怖へと変わっていった。


まるで繋ぎとめようとするように、電話だけは譲れずに。


けれど数日もすれば我慢できなくなる。


声を聞くだけでは満足できなくなる。


呼び出そうとしてしまう心を押さえ込もうとして、電話をすることさえ恐くなり、毎日の電話も減っていった。











(・・・はぁ・・・どれもパっとしねーな・・・)


就職情報誌を床に放り投げて、隼人はテーブルに突っ伏した。


久美子が新しいクラスを持って二週間が経った今も、なかなか就職活動に力が入らず、面接さえも受けていない状況。


仕事で紛らわそうと思っていたのに、その仕事にさえも身が入らない。


「ただいまー」


「おかえり。」


学校から帰ってきた拓の声に顔を上げる。


「夕飯、どうしようか?」


一度部屋に入って私服に着替えて居間に戻ってきた拓は財布を片手に首を傾げている。


「あー・・・簡単なもんでいいだろ」


軽く伸びをして立ち上がった隼人は、拓と一緒に買い物に出かけることにした。



こうして拓の買い物に付き合うことが近頃増えている。


竜たちもそれぞれ進路を決め、この時期は忙しいだろうし。


新しい生活に変わったばかりの今。家族だけが変わらないものだった。


それに、拓は久美子のことを話題にあげることもなければ、ふれようともしない。


そのことが、隼人には安心できる救いのようなものだった。




どんなにべつのことを思っていても、心の中は久美子ばかりだ。


先週の休みに会ってから、まだ三日しか経っていないというのに・・・。


土、日の二日間。隼人は、離さなかった。時間が許す限り、久美子を抱きしめ続けた。


会えない時間を埋めるように抱きしめていたはずなのに。


抱きしめていた分だけ、想いは強くなっていく。






「・・・・・・・・・」


ぬくもりを想い苦しさに眉を寄せると、ふいに隣を歩いていた拓の歩調が遅くなった。


すぐにでも立ち止まってしまいそうな足の動きを不思議に思い、顔を見れば困ったような顔。


どうしよう・・・という感じで、隼人に目を向ける。


「どうした・・・・・・」


訝しげに視線を合わせて。




「−−−やんくみー!」




・・・ドクンと、胸が鳴った。




ゆっくりと前を向いて。


前方に見えたのは。


「お前らーあんまり寄り道してちゃ駄目だぞー!」


「げーっ!まだ日も暮れてねーのに家なんか帰れっかよー」


久しぶりに見るおさげ髪に眼鏡をかけた久美子と、きっと新しい生徒であろう、数人の男達の姿。


怒った口調でも。その瞳は優しさで溢れていて。


久美子の姿に、頭がぼうっとする。


鼓動だけがドクンドクンと鳴り響いて。



・・・触れたい。



熱い想いが、引き寄せられるように久美子へと足を踏み出そうとした。


けれど。



「やんくみも一緒にゲーセン行こうぜ?」


「カラオケでもいいよー」


そう嬉しそうに男達の手が、久美子の肩へと触れた瞬間・・・。


叫びそうになる。



「−−−・・・・っ!」



けれど隼人は足を止め、言葉を飲み込んでいた。


ギリッと手を握り締めて。勢いよく、背を向ける。


「隼人兄?」


心配げな拓の声に苦しい胸をふっと落ち着かせて。


「・・・帰るぞ」


そう短く言って、背を向けたまま早足で歩き出した。


「え・・・?」


突然の行動に戸惑っている拓はチラリと久美子へと視線を戻して、そしてふっと思わず眉を切なげに寄せる。


久美子は、隼人の背中をじっと見つめていた。



切ない、眼差し。


今にも涙で溢れ出しそうな・・・悲しい、寂しげな表情で。



でもそれも一瞬のこと。


拓の視線に気がついた久美子は、目を合わせて、なんでもないように、にこりと笑った。



その笑顔と、どんどん歩いていってしまう隼人の背中を想って。


拓は心底困ってしまう。


切ない気持ちもよくわかる。


なんとかしなきゃと思いながらも。


複雑すぎる二人に、どこから手をつけるべきかもごちゃごちゃしすぎてわからないのだ。


どうすることが一番で。自分は何をしてあげたらいいのか。何ができるのか。


頭を悩ませても、中々浮かばない。


でも二人のことは。結局、二人にしか出来ないことかもしれなくて。


拓はただ、今は。


いつも気遣ってくれて、大切に想ってくれる優しい兄と、明るく優しい笑顔と暖かさに溢れた先生が


このまますれ違ってしまわないことを。


これ以上、悲しい顔をしないことを。


願うことしかできなかった。











家に着いて、隼人は無言のまま部屋に閉じこもった。


心配している拓に兄として平然と振舞えるような余裕はなくて。


いつもは開けっぱなしの部屋の襖を閉め切って、そのまま襖に背中を押し付けてズルズルと座り込む。


薄暗い部屋の中。ヒンヤリとした空気に、片膝を抱えた。



久美子の肩に男の手が触れた瞬間。かぁっと怒りで、身体中が熱くなった。



触るんじゃねーっ!!



そう、叫びそうになりながらも。


ふいに浮かんだ光景に胸が痛んで、目元が熱くなる感覚に慌てて口を噤んでいた。


情けないほどに泣きたくなる。


学生服の男とおさげ髪の久美子の姿に、思い出してしまった高校時代。


探して視線を彷徨わせた朝も。見つめ続けられる授業中も。抱きしめて、二人きりで過ごした昼休みも放課後も。


何もかもが、心を締め付ける。


眼鏡のない顔。解いた柔らかな髪。


そんな姿を見るたびに、近づけたような気がして嬉しかったはずなのに。


その嬉しささえも、悔しさに変わってしまう。



あんなに・・・近かったのに。


あんなにも触れて、抱きしめてきたのに。


今は、触れることも自由にできない。


会うことすら、出来ない。



どうして・・・あいつは、ここにいないっ?


触れられないっ?


俺だけを見ないっ!



我慢するって決めたのは自分だけど。


胸は苦しくなるばかり。


悲しさに、寂しさに。泣きたくなる。



・・・俺って、こんなに弱かったかよ・・・。



片膝に額を押し付けて、抱える腕に力を込める。


どんどん、どんどん望んで。欲して。


狂った心は、容赦なく暴れだす。


でもそのたびに、誰かが言った。



勇気もないくせに。ただの情けない子供のくせに。


そんなんで、なにを手に入れるつもりだ?



冷たく響く声が胸を突き刺す。


けれど崩れ落ちそうな心を支えているは、その突きつけられる現実だった。


知りながら。わかっていながら。


言葉にしようとしても、声が出ない。


震えて。目の前が真っ暗になって、言うべき言葉がわからなくなる。


どうしろっていうんだよ。


なにもわからない。どうすることが勇気なのかも、わからない。


自分が何に怯えて。何に躊躇っているのか・・・。




狂った想いは、ただ深く暗く、落ちていくだけ・・・・・・。



















切ない想いと暗い気持ちを抱えながらも会うことはやめられない。


博史も遠出の仕事に出掛け、拓も友達と遊びに行っていて二人きりの家の中。


喧嘩していても明るかった二人の空気は、欠片もなくなっていた。






静まり返った居間。


隼人は久美子が持ってきてくれた就職の資料を眺め。


久美子は数日前に授業で配ったプリントの採点をしながら、時間だけが過ぎていく。


苦しいほどに触れたいはずなのに。泣き出しそうな想いが隼人の手を抑えつける。



触れてしまったら、どうにかなってしまいそうで。


見つめてしまったら、触れてしまいそうで。



隼人は震えそうになる手でコーヒーに手を伸ばした。


冷めたコーヒーの苦味が口の中に広がる。


沈黙が苦味を強くさせているようで、思わず眉を寄せた。


黙々とペンを走らせる音が微かに聞こえて久美子の手元だけに視線を向ける。


細く白い手と一緒に赤いペンがクルリと円を書いたり、シュッと下から上へと動いていく。


淡々とした動きに。なんでもないような普通の仕草に。


隼人は、ふっと苛立ちを覚えた。


震えそうな自分の手。こんなにも俺は、苦しくてたまらないのに。


お前は・・・平気なのか?


俺などどうでもよくて。そのテストを解いた生徒達のことで、その心が一杯なのか?


身勝手な気持ちが膨らんでいく。



結局・・・。



「生徒が一番大事ってやつ・・・?」


「・・・?」


小さく呟いた声に久美子が顔を上げた。


硬く険しい隼人の視線と目が合って、思わず肩が震える。


「な、に・・・?」


戸惑うように揺れた瞳を見つめ返して、思い起こす出来事。


親しげな男達。


さり気なく肩に触れる手。


怒りが、蘇ってくる。


会えない間。触れられない時間。どれだけの手が、どれだけの人間が。


その身に触れた?


触れさせた?


「・・・・・・」


「やぶき?−−−・・・っ!?」


小さく首を傾げた久美子の身体を、隼人はぐいっと引き寄せた。


生徒でいる間は自分だけが触れていたはずの身体。


他の奴が触れられないように。奪い尽くしていた時間。


あの頃のように。


あんな風に。


「あいつらにも、簡単に触らせてんのかよ?」


「なにいってっ・・・」


かあっと赤くなる、その様子に苛立ちは増していく。


鋭くなった視線に堪えきれないように、久美子は腕の中から逃れようとする。


「ば、バカなこといってんじゃないっ!!離せっ!」


それはますます隼人の怒りを煽って。


「他にも採点があるんだからっ私は帰るぞっ!」


腕の中にいながらも。今だ、生徒のことを口にする久美子に、心は抑えきれない。


力を抜いた一瞬に、久美子は立ち上がった。


けれど隼人は逃がしはしない。続けて立ち上がった隼人は、久美子の両肩を引っ掴むと勢いのまま
そばの壁に久美子の背中を押しつけた。


「そんなに生徒が大事かよっ!!俺がっどんな気持ちでいるかもしらねーでっ!」


「はな、せっ・・・」


押しつけられた背中と、ギリギリと肩に食い込んでいく指の痛みに久美子の顔が歪む。


「卒業したら、それで終わりか?生徒じゃなくなったら、俺のこともどうでもいいわけ?」


ぐぐっと距離を縮めて、久美子の顎を掴み上げる。


無理やり合わせられた視線は今までにないくらいの怒りに揺れていて、久美子は目を見開きながらも
すぐに声を上げる。


「そんなわけないだろっ!卒業したって、お前らは大事な生徒っ・・・」


「お前らってなんだよ!俺は俺のことを聞いてんだろ?他の奴のことなんかどうでもいいっ!俺のことを聞いてんだよ」


「そ、そんなの・・・お前は・・・私の生徒で・・・今の奴らと同じ位、卒業したって大事だ・・・」


視線をさ迷わせながら、途切れ途切れに呟いた言葉に・・・隼人の心が強張る。


「・・・おなじ・・・?」


繰り返して。


「こんな風に家にいて。抱きしめて、キスまでしてんのに・・・他の奴らと、同じ?」


隼人の口元が、ククッと冷たい笑みを溢した。


「それはっお前が・・・・・・」


咄嗟に言い訳のように言った久美子の言葉に、隼人は悔しさに顔を歪める。


赤い頬と戸惑う瞳に。それが素直になれない久美子の誤魔化しだというのは、なんとなくわかっていた。


というよりも、そうであってほしいと望んでいたのかもしれない。


少しでも、自分は特別なのだと。


他の奴らとは違う。他の生徒達とは違う。


それが、同じ・・・?


「ふざけんなよ・・・」


同じなんて冗談じゃない。


素直じゃない、誤魔化しの嘘でも冗談じゃない。


「・・・なんで・・・てめーはそうなんだよ・・・」


「なに・・・?」


ギュッと肩を掴む手が、小さく震えていく。


「こんなに、苦しくて・・・。こっちは可笑しくなりそうだってのに・・・なんで、平気な顔してられる?」


いつだってそうだった。いつも俺ばかりで。俺がなにかすれば、赤くなったり反応を示すけれど。


いつだって、なんでもないような顔してやがった。


授業中も、他の奴らと一緒の時も。


いつもいつも、教師の面・・・。


だから、二人でいる時の姿が。腕の中にいる姿が・・・たまらなく欲しかった。


でも結局、なにもしなければ、こいつは教師のまま。


「会いたくてしょーがねーの、我慢してる俺が・・・バカみたいじゃねーか・・・」


苦しさに涙が流れそうになって、硬く目を瞑って久美子に覆い被さるような形で壁に額を押し付けた。


「・・・なんで・・・なんもいわねーんだよ・・・なんで・・・」


自分のことを棚に上げて、よく言う。


そんなことわかっているけど。


苦しかった。


誤魔化しでも。同じだといってしまえる久美子が、憎らしく思えてしまいそうなほど・・・。


泣きそうなほどに苦しくて。会えないことが寂しくて。


我慢し続けた心は、今までのように貫ききれなくなってしまうほどに、脆くなっていった。



目を瞑り。視界を閉ざした先で、久美子がどんな表情をしているかも知らずに・・・。



「お、お前・・・だって、就職すれば、そんなこと思わなくなるってっ」



ふいに出された声が、微かに震えているのも気づかないまま・・・。



「なかなか決まらなくて、焦ってんだっ、きっと」



ただその明るい口調と言葉だけが、隼人の耳に届いて。



「なんだよ・・・それ・・・」



信じられないと目を見開いた隼人の心は、凍り付いていく。



「仕事が見つかったら、お前だって平気でいられるって!」


なっ!と微笑む、その笑顔が、無理をした、カラ元気なものだということも、なにもかもが見えなくなって


気づかなくなって、ただ言葉と笑顔だけが、隼人の胸に深く突き刺さっていった。





就職なんて、関係ない。


焦ってなんかない。


ただ俺は、お前がいないことが苦しくて、嫌なだけだ。



そんな言葉を思い浮かべながらも。口にすることはできなくて。



この泣きたくなるような苦しさを、お前は笑顔で、そんな簡単に、平気だって言ってしまえるのか・・・?



そう思った瞬間。隼人の表情が、すっと消えていった。



肩を掴んでいた手がスルリと落ちて、



「・・・そう、かよ・・・・・・」



力なく呟いた言葉を最後に、隼人は久美子から背を向けてしまった。














遠ざかっていく背中。


伸ばしそうになる手を、久美子は痛む胸を堪えるように、ぎゅっと握り締めていた。








隼人はあのまま家を出ていってしまい、一人残された静かな居間。


押さえ付けられていた壁を背に、力の抜けた身体はズルズルと沈んでいく。



あんな風に、言うつもりなんかなかった。


あんなに傷ついた顔をさせたかったわけじゃない。


傷つけたかったわけじゃない。


ただ私は・・・





ただ・・・・・・・・・・・・





ただ・・・





「・・・なんだって、いうんだ・・・?」





あんな言葉しか言えなくて。


傷つけて。


結局、あいつを苦しめてるだけだった・・・。





「・・・バカなのは、私の方だよ・・・」


ポツリと呟いた、儚い言葉。





微笑んだ頬に・・・涙が流れた。








でも、これでよかったんだ・・・。


こんな風に見送りたかったわけじゃないけれど。


傷ついた背中に、手を振りたかったわけじゃないけど・・・。


きっとこれ以上は、そばにはいられないから。





しがみついて、しまいそう・・・だから・・・・・・。








ポロポロと、零れる涙。


痛い、胸。


苦しさに溢れながら。


傷つけてしまった姿を想う。





ごめん・・・





ごめん・・・





・・・恐かったんだ。





しがみついてしまう自分が・・・


私のそばから、離れてしまうことが・・・


疎ましく、想われてしまうことが・・・


すごく・・・恐かったんだ・・・。








ただ・・・


ただ、私は・・・・・・





苦しさから、切なさから・・・


逃げたかった、だけだった・・・。












切ない涙が、こぼれていく。


震えてしまいそうだった、


しがみつきたかった、細い手が・・・


溢れる涙で、ぬれていた。













あとがき


雰囲気的にあとがきは書かないようにと思っていたのですが、なんか後味悪すぎなのであえて書いて見ました。

なんかもう皆さん自虐的で、すみませんって感じですね。

こっから「スイカ」のようなバカップルに戻るのかどうか、かなり先行き不安そうですが、

かならず「春のおわりに」内でハッピーにさせますので。

でも、やっぱり文才無さ過ぎて二人の想いがなかなか上手く書けませんで・・・申し訳なかったです。