拓を見送った後、居間へと足を踏み入れて。まだ気付いていない久美子の姿をそっと見つめた。 力なく座り込んだまま、両手で顔を覆って切ない泣き声が涙と一緒に溢れてる。 痛む胸と一緒に、同じように泣き出してしまいそうなほど・・・その姿は切なく悲しくて。 泣き崩れる姿は、彼女の心そのものだった。 離れたくなくて、離したくなくて。それなのに何一つわかってなかったのだと痛いほどに気付く。 傷つけていたのは自分だ。 勝手に傷ついて、いつだって、久美子だけを見ているような顔をして、本当は何も見ていなかった。 こんなに、こんなにも傷つけて・・・一瞬、足が竦んでしまう。 拭いきれない後悔が身を重くして。それでも隼人は自分の気持ちを分かっていた。 自分のために、こんなにも泣いてくれる。 いつだって、自分は身勝手だった。勇気がなかった。 隼人は決意をするように握った拳に力を込めた。 勇気が欲しい。 逃げない勇気が。 振り向く勇気が。 こんなにも好きな人と向き合える、勇気が欲しい。 「・・・やまぐち・・・」 そっと、絞り出すように零れた呼び声は情けないほどに掠れていて。 細い肩が大きく震えた。 覆っていた両手がゆっくりとすべり落ちて、隼人を見つける。 目が合って。視線が重なって。それだけで、少し気持ちが軽くなる。 でも、涙に濡れた瞳は揺れていて。 傷つき、影を帯びたその瞳に、胸が痛んだ。 「山口・・・」 信じられなかった。どうしているんだろう。どうして・・・。 「や、ぶき・・・」 あいたかった姿がある。 凄く、あいたくて。 見上げた彼を見て、苦しいくらいに鼓動が鳴ってる。 でも、怖かった。 一番知られたくなかったから。 こんな弱い自分なんて、見てほしくなかった。 こんなに、こんなにどうしようもない姿なんて、知ってほしくなかったのに。 知られてしまったら・・・きっと、もう戻れない。 もう嘘は吐けなくて、隠せなくて、もうどんな形でも・・・そばにはいられない気がして。 目の前に座ろうとする隼人から、久美子は逃げ出そうとした。 弾かれたように立ち上がって、座ろうとする隼人の脇を通り過ぎようとする。 けれど通り過ぎた、 その瞬間に、腕をとられた。 「っ・・・・・・!」 息を呑み、立ち止まる。 軽く掴まれた腕から手のぬくもりが伝わって。 久美子は、腕を後ろに引かれたまま、隼人に背中を向けたまま、でもそれ以上は動けなかった。 鼓動が鳴ってる。 胸が、心が、苦しくて。でも・・・熱くて、溢れ出しそうなくらいに一杯になってく。 どうして、こんなにも彼だけでいっぱいになってしまうんだろう。 どうして・・・こんなに好きになってしまったんだろう。 隼人は振り解かれない手にほっとして。怖いくらいになってる鼓動に、そっと息を吐く。 掴んだ腕に力を込めて。座りかけだった腰を床へと下ろした。 静かな、二人だけの沈黙。 背中を向けて。手と腕だけが、互いの背中で繋がってる。 いつだって、二人はこうしていた。 背中合わせで。伝わるぬくもりだけで胸を一杯にして、傷ついて、苦しんで。 振り向くことも。向かい合うことも、出来ずに逃げてたんだ。 素直になれず。ただ離したくない一心で、こうやっていつも久美子の腕だけを掴んできた。 身勝手に突っ走ってきた。 振り返るのが、怖かったのだ。 顔を見たら・・・その顔には、その心には、自分はいないような気がして。 確かめるのが怖かった。 でも、拓の言葉で気付いた。 振り向かなきゃ、わからないことがある。見えないことだってある。 伝わらないことだって沢山あるのだから・・・。 ぎゅっと込めた手と一緒に気持ちを深く込めるように瞼を閉じる。 こんなに好きなんだ・・・。 この気持ちに嘘は吐けないし、吐きたくない。 静かな、二人だけの沈黙。 背中合わせから、ゆっくりと足を動かし、振り返る。 座ったまま見上げた背中は、自分で思っていたよりもずっとずっと小さくて弱いことを知った。 教師として。担任として。 両手を広げて、沢山のことから守ろうとしてくれていたあの強い女性はどこへいったのだろう。 切ない背中。頑なに距離を取って、ただじっと耐えるように、諦め続けてきた背中がそこにはある。 きっと、ずっとこんな風に。こんな背中で、いつも悲しみに暮れて彼女は泣いていたのだ。 少し躊躇って。それでも言葉は、思うよりも穏やかに喉を流れていった。 「・・・ごめん・・・。」 いっぱい泣かせて。 沢山のことから、逃げて。 「すげー馬鹿だったんだ・・・。自分じゃ、結構大人だと思ってたのにさ。お前の前じゃ、余裕なんて全然なくて、もう必死で。 ・・・ホント、子供だったし、わがままだった・・・」 好きで、好きすぎて・・・ただ、自分の気持ちでいっぱいだった。 「苦しくて、どうしようもなくて。お前の所為にもしてた。」 向き合う勇気もなかった・・・。 握り締めていた腕からそっと手をずらして、白い手の平に触れる。 白く細く、硬直して冷えたその指先を温めるように手で包み込んで。 交わるぬくもりが気持ちを励ましてくれているような気がして。 隼人は久美子の背中を真っ直ぐと見上げて、ゆっくりと、告げることができた。 「そんな、俺だけど・・・そんな風になるくらいに・・・俺は、 −−−−−お前のことが、好きだ・・・」 ずっと、言えなかった言葉。 伝えることが・・・なにより怖かった言葉。 勇気を出して、振り向いた先に見えたのは・・・・・・・ 震える肩と壊れそうなくらいに脆く小さな背中。 振り向いて、 そっと目を細めてふにゃりと歪む表情に、涙が零れ落ちる。 ぼろぼろと流れ落ちる涙は儚げで綺麗で、愛しかった・・・。 「・・・っ・・・ふっ・・・やぶ・・・き・・・!」 溢れ出る涙と一緒に、長い髪がふわりと靡く。 飛び込むように・・・久美子の身が隼人へと向かって沈んでいった。 振り返ることが、ずっと怖かった。 前を向くことができなかった。 拓が言うとおり、後ろ向きで歩き続けることはとても大変で。苦しかったんだと思い知る。 だって、前を向いた先には・・・向かなければけして触れることもできない、こんなに温かなものがあったから・・・。 どうして、こんなに好きになってしまったんだろう。 そう問いかけ続けて、結局逃げていたのだ。 後悔なんて出来るわけがないのに。 素直になることから、逃げていた。 向き合うことからも逃げて。傷つけて。 それでもたった一言に・・・誤魔化せない想いでいっぱいになる。 彼の背中に腕を回して、しがみついて。 溢れ出る想いに、優しい涙が小さく零れた−−−。 |