******



「また来てもいいかな・・・?」

躊躇いがちな声に思わず足が止まった。

鞄を握り締めて俯く妹の話相手が誰かなんて、見なくてもわかりきっている。

驚いて、揺れる顔も想像がついた。

けれどたった一つだけ・・・。


「−−−いいよ。」


ほんの一瞬、穏やかに和らぐその優しい微笑みだけは、想像出来なかった。




いつの間に打ち解けたのか。それはまるで、まだ何も知らなかったあの頃のようで。

けれど決してあの頃に戻ることが出来ないことを、香織の瞳だけが知っているようだった。


叶わぬ恋を胸に秘めた、悲しい色のその瞳だけが−−−。









「香織」


「・・・お兄ちゃん」


駆けていく背中を病院の庭で呼び止めれば、案の定、振り返ったその顔には涙が滲んでいた。


「そんなに好きか?」

「・・・うん」

思わず零した問いに悲しそうな笑顔で頷く妹に、何の言葉も掛けてやることが出来ない。

諦める代わりに逃げないと決めた妹と。諦める代わりに、奪うことを選んだ自分。

あの頃に戻ることが出来ないのは、俊介も同じだった。

「まだね、ちょっと辛いよ?でもやっぱりそばにいると嬉しくて。」

これも兄妹だからなのかな?

泣き笑いの顔で、堪えるように空を見上げる。


「フフッ、なーんてね。」

でもすぐに前を向いて涙を払うその姿は、痛ましくも映るのに。

どこか、羨ましくも思えた。



「都倉先生とは、うまくやっていけそうか?」

兄妹として。

自分のことを棚にあげた酷な言葉にも香織は驚いたような顔をして、それから嬉しそうに笑った。

「ずっと、どんな顔したらいいかわからなかったけど・・・でもね、笑ったら・・・


都倉先生も笑ってくれたの」


どんな顔をしたらいいかわからないのは、あの人だって同じだった。


そう思ったら・・・。あの人の笑顔を見たら・・・。


家族に向けるような、そんな優しい顔に気持ちも少し軽くなった気がした。



「お兄ちゃんは?ちゃんと上手くやっていけてる?」


「さあ。・・・ああいう顔も、されたことは無いしな」


自業自得だとわかっていても。その現実から目を逸らすように、空を仰ぐ。


距離を縮めたいと思ったつもりが、今はもう、何もかもが遠くなってしまった。


「お兄ちゃんってとっつき難そうだもんね。都倉先生も緊張しちゃうんじゃないかな?」

「緊張、ね・・・。」

何も知らずクスクスと笑う香織の明るい声を聞きながら、遠くを見る眼差しで目を細める。


奪って得られたものは腕の中にある身体と。

自分を視界に入れた時に見せる、硬直するような瞳だけだった。


穏やかなものは何も。笑顔も雰囲気も何一つ、得られずに。


そんなことはわかっていて。


それでもいいと、思っていた。





*****





「都倉先生ーこの書類俊介さんに渡しといてくれない?」

座ったまま大きな封筒を差し出してくる熱川の声に都倉は一瞬カルテを仕舞う手を止めた。

聞こえていないふりをするには距離が近すぎて、渋々な思いで振り返る。

「熱川先生が自分で届けられた方が」

「あ!今、露骨に嫌な顔したね。」

今のは絶対図星を指したぞ!と、得意げな顔で笑う。

「・・・しましたね。でもそれが何か?」

別にそれくらいのことを指摘されても、痛くも痒くもないというような態度で返せば、
熱川の笑みは止まり、取り直すように腕を組む。

「駄目だよー都倉先生。そういう態度はさあ。
そりゃあ付き合いにくい関係があるのはわかるけどね?」

「・・・・・・」

関係、という言葉に思わず表情が強張りそうになる。

彼の言う関係が血縁のことを言っているのだとわかっていても。

自分と彼の間にある背徳的なものに後ろめたい思いが涌いてくる。

「でも何かそれ以前に苦手意識持ってるみたいじゃない?
そこんところはもう少し仲良くしてみてもいいと思うんだよねえ、俺はさあ」

都倉の動揺に気づく気配のない熱川は、なおも得意げに胸を張っていい募った。

だんだんと調子付いてきている彼に話が長くなりそうな予感を感じたその時、


「心配ないさ、熱川先生。」


フと笑みを浮かべた声が間に入り込んだ。



「俊介さん!?」

突然の登場に、腰を抜かすようにイスを滑らせて熱川が慌てて姿勢を正す。

別に疚しいことを言っていたわけではないのだが、もうこれは条件反射みたいなものらしい。

ビビるあまり顔面がヒクヒクと引き攣っているのも気にせずに、

突然現れた俊介は熱川の手から落ちた封筒をひょいと拾い上げる。


「こう見えて、俺と都倉先生は意外と気があってね。今度、都倉先生の家にも遊びに行くことになってる。


−−−そうだろう?都倉先生」


「−−−っ・・・!?」


流れるように向けられた視線に都倉は呆然と表情を凍りつかせた。







「冗談を言うのは止めて下さい。」

二人の間に立ち込める不穏な空気を察して、そそくさと熱川が出て行ってしまった後、
都倉はイスに座るとかじりつく様にデスクに向き直った。

遊びに行く約束など。ましてや家に行くなんてことすら、話した事はない。

冗談にしたって、あまりに性質が悪すぎる。

自分と彼の間にあるものは、そんな生温いものではないはずだ。

それをわかった上で遊びで片付けられるものなら、今すぐにでも自分を自由にしてほしかった。


「冗談じゃないんだが、嫌か?−−−嫌なら・・・」

背後に立つ気配がして、肩に置かれた手にギクリとする。

思わせぶりに途切れた言葉の先を察して、酷く青褪める表情に一瞬向けられる視線が強さを増した。


一方の家が駄目なら、もう一方へ。

泉田の家へと繋がる流れに、都倉は手に持ったカルテを握り締めた。


俊介は、強くなる視線をすっと脇へと逸らし、肩から手を離す。

「・・・それこそ本気にするなよ。そこまで、酷い奴じゃないさ」

フッと苦笑いを浮かべる気配にカッとなって思わず相手を振り仰いだ。

「冗談でも言えることじゃない!あなただってわかってるはずだ、そんなことはっ!?」

鋭く睨みつけようとした先で、零れ落ちた頷いた彼の表情に、都倉は思わず息を呑んだ。


「・・・・・・そうだな。」

傷ついたような、諦めたような苦笑いに何も言えなくなる。


何故、そんな顔を自分が向けられなければならないのか。

苦しいのなら、自分を手放せばいい。

そうどこか冷めた感情を抱えながらも。その一方で彼がそうは出来ないことも気がついていた。

これは単なる戯事なのだと割り切ろうとすることよりも、

傷ついた顔をしてもなお割り切れないでいることの方が苦しいはずだ。

けれど、それがわかっていてもどうすることも出来ない自分には、

結局彼を責めることも逃げることも出来なかった。



言葉を失って口を閉ざす都倉に、俊介は息を吐き出しながら天井を仰ぎ見る。


「心配するな。言いたいことは、わかっているさ・・・。」


それでも、どうしようも出来ないのだが・・・。


息と一緒に抜けていく肩の力にいつもの平静が戻ってくる。

言いかけた言葉は失言だったと視線を戻して都倉を見つめ、その、ガラスのような眼に、

せめてこれだけは・・・そうふいに、言わずにはいられない言葉があるのを知った。


「・・・たとえ君が、俺を嫌いだとしても。俺は、君が好きだからな。

こればかりは、本当にどうしようもない。」


だから手放すことは出来なのだと、俊介は笑みを浮かべて告げた。



「・・・・・・。」

放り投げるように寄越された告白に、都倉はしばらく動けなかった。

好きとか嫌いとか。

そんな単純なもので片付けられるほど自分達の間にあるものは簡単なものじゃないはずだ。

そうやって、まともに受け取ることもしないで出て行く背中を見送るつもりが、


「・・・あなたのことを、嫌いだと思ったことはありません。」


気づけばふと、口を開いていた。



「・・・!」

掛けられた言葉に進んでいた俊介の足がピタリと止まる。

振り返る気配にイスを回して身体を横に向け、驚いたように凝視する視線に視界を閉ざして息を吐いた。

こんなことを言うつもりなんてなかった。

そんな簡単に、好き嫌いで片付けられるものじゃないことは痛いほどわかっているはずだった。

けれど、彼の苦笑を思い浮かべると、このまま黙ってやり過ごすことなど出来ない気がした。


「・・・憎らしく思ったことも、恨めしく感じたこともあります。

けれど・・・、嫌いではなかった。」


自分の父親を知った瞬間。あの人の息子でいられる彼が。父親を堂々と守れる彼が、

憎らしくて悔しくて、そして・・・羨ましかった。


誇りを持って。確かな信念を持って。何が何でも家族を守ろうとする彼のことを、

本当はずっと・・・尊敬していた。



「・・・あなたがいなければ、この病院をセンターとして生まれ変わらせることすら

思い浮かばなかったかもしれない。」


全てを任せられる人がいなければ。信頼できる人が、そばにいなかったのなら。


「−−−きっと・・・。」






もう二度と、何も知らなかったあの頃に戻ることはできないのだとわかっていた。


穏やかなものは何一つ、この手に出来ないのだと諦めていた。


けれどそれが全てではないのだということを、俊介はその時、ガラスのような瞳の中に見た気がした。





あの時、泉田病院を父の城だといったあなたの背中を見つめていなければ、



きっと・・・−−−。







END