その日の朝。珍しく早くに起きた慎は、コーヒーをのんびりと飲んでいた。 大学も休みで今日は一日静かに過ごせそうだ。 読みかけの本でも読もうかと、今日の予定をなんとなく考えていると・・・。 ふと、妙な鳴き声が聞こえてきた。 −−−−・・・にゃー・・・・・・・・・ 「・・・猫?」 野良猫が迷い込んでもきたか? 玄関の方から聞こえてくる。 近づいてくるその鳴き声がピタリと止んだ。気になって玄関へと近づいた、その時。 −−−−ドンっ・・・・・・コンッ・・・ドンっ・・・・・・コンコンっ・・・コツン・・・ 不規則なノック音。 強いと思ったら弱くなったり、迷うような躊躇うような間隔。 猫の鳴き声が全く聞こえなくなったのも気になるけれど、このノック音は明らかに怪しかった。 勧誘でもなさそうだし。怪しい事件に巻き込まれるような覚えはない。 この部屋を知っている親友達は連絡をよこすだろうし。 ノック音と明るい声で突然現れる女に覚えはあるけれど・・・学校に行っているはずだ。 誰かがどこかで捨て猫を拾って、放っておけずに貰い手を捜してる。 (そんなところか・・・?) それなら猫の鳴き声も、躊躇うような間隔も当てはまりそうだ。 慎は迷いながらも玄関を開けた。 「はい・・・」 と、そこに立っていたのは。 「・・・・・・ヤンクミ?」 いつも突然のノック音と明るい声で現れる女・・・山口久美子であった。 「どうかしたのか・・・?」 学校はどうした?と一瞬思ったけれど、様子がおかしい。 ゴーン・・・っとすこぶる気落ちしたように肩を落とし、漂う空気も暗く重い・・・。 俯いたままの肩にそっと手を伸ばした瞬間。 「・・・・・・にゃわだぁー・・・」 「・・・・・・は?おいっ?」 ヒシッと引っ付かれ。 「−−−−に゛ゃあぁぁぁ〜〜〜〜〜っ!!」 久美子が鳴いた。 さきほどの猫の鳴き声が久美子のものだと慎が理解したのは、それから一分後のことだった。 「全く覚えがないのか?」 「・・・・・・ないにゃ・・・」 慎からカップを受け取った久美子の声は、えらく沈んでいる。 そりゃそうだ。朝学校へ向かう途中、前方に見えた憧れの九条に背後から声をかけようとしたら、 最初の言葉が自分では思ってもいない一言だったのだから・・・。 ビックリして慌てて来た道を戻ったけれど、呼吸を整えようと吐き出した息さえも「にゃー」である。 どんなに意識して喋っても、「にゃ」がいたるところについてくるし。 自分の声が自分の声じゃないような気がして。自分が自分じゃなくなってしまうような気さえして・・・。 一人途方に暮れた久美子が行き着いた先は、慎のところだった。 クリームたっぷりのコーヒーの香り。両手を暖めてくれるマグカップ。 だだっ広く落ち着いた・・・というか、クールな室内。 そこは自分の部屋とはかなりかけ離れているけれど、とても安心する空間だった。 それに慎が冷静でいてくれたのがよかった。 パニックで叫ぶ背中を、軽く叩いて優しくさすってくれて。 家に連絡をいれて、学校のことも彼は祖父に頼んでくれた。 「ありがとにゃ・・・。おにゃえはにゃっぱりにゃよりになるにゃっ」 「お前が頼りなさすぎなだけだろ」 「にゃーっ!!」 「そんなことより、それ飲んであったまれ。・・・顔色があんまよくない」 眼鏡を取った久美子の顔を慎は心配げに見やった。 青白い顔はショックを受けているだけではない気がした。 気だるく、どこか体調にも不調がありそうだ。 「・・・にゃー・・・・・・にゃっっ・・・!」 どうやら舌まで猫に変化しているらしい。 久美子の瞳にぶわっと涙が浮かんでくる。 このくらい全然平気だったのに・・・。 赤い舌をちょっと出して、ぐにゃりと泣きそうになる姿に思わず鼓動が高鳴るけれど、 慎はそれを抑えて、ごく自然に久美子の頭を優しく撫でた。 それ以上の変化が見られないまま、一時間がたった頃。 「おい。ベッドで寝ろよ」 「・・・いいにゃ・・・・・・ここが・・・落ち着くにゃ・・・」 ベッドに寝るのを嫌がり、テーブルの下に身体をいれて横になっている久美子に慎は溜息をついた。 「ここはコタツじゃねーぞ・・・?」 いつもは好きにさせているけれど、久美子の様子を考えるとそうもいかなかった。 顔色が一向によくならない。 気持ち的には随分落ち着きを取り戻しているのに、青白く、酷く疲れきった顔をしていた。 「気分が悪いのか?」 「・・・・・・にゃー・・・・・・・・・・・・・・・」 気だるそうな声に、ある思いが頭をよぎる。 弱ってきてる・・・。 そう思った瞬間、ぞっとした。 「・・・っ・・・」 恐ろしい思いに震えそうになるのを必死で押さえ込んで、慎は努めて冷静な声で聞いた。 「・・・一人でも大丈夫か?」 「にゃ・・・?」 「なにか食べないとだろ。買ってくるから・・・」 「にゃー・・・」 久美子は大丈夫だというように小さく笑った。 それはとても弱弱しいもので・・・ズキリと大きく胸が痛む。 (大丈夫だよな・・・・・・) 自分にそう言い聞かせて、慎は上着と財布を手に取った。 出る前にもう一度だけ、久美子を見つめる。 やはりテーブルの下に横たわる姿は、酷く弱って見えた・・・。 妙な不安が引っかかる。その訳に気づいたのは、買い物から帰ってすぐのことだった。 「・・・ヤンクミ?」 一番最初に見に飛び込んできたのは・・・ 玄関のすぐそばにしゃがみ込んで、泣きじゃくっている彼女の姿。 「どうした・・・?」 慎を見上げる瞳には涙が溢れていた。 「どっどこいってたにゃっ・・・ひっ一人にゃったにゃっっ・・・」 ヒックヒックと声を詰まらせながら、久美子は顔を歪めた。 流れる涙は、彼女の頬も手も服も濡らしていく。 こんな風に彼女が泣くのは初めてで・・・慎は思わずその身体を抱きしめていた。 酷く怯えたように震える身体に強く力を込めて。 「・・・ごめん・・・」 震えそうになる声で、短く言った。 一人が恐いと思うほどに、彼女の心は動揺していたのだ。 自分はそれに気づいてやれなかった・・・。 後悔の念を痛む胸と共に押さえ込んで、慎は彼女の髪をゆっくりと撫でてやる。 「・・・なんでにゃっ・・・っっ・・・ちがうにゃっ・・・」 フルフルと頭を振って泣き続ける様子に撫でられるのが嫌なのかと慌てて髪から手を放すけれど、 どうやら違うらしい。 「・・・っ・・・にゃたしはっねこじゃないにゃっ・・・ちがうにゃっ・・・っ」 繰り返される言葉に、慎は放した手を背中へと回した。 「・・・・・・そうだな」 朝と同じように小さな背中をゆっくりとさする。 理由もわからず、対処もできないのに大丈夫だとは言えない。 なにもできない自分への苦しさを胸の奥に抱えながら 慎は彼女が落ち着くまで・・・ずっとそうしていた。 気がついたら一人きりで・・・。 両手を暖めてくれたマグカップは冷たくて。コーヒーも冷たくて。 この広い部屋全てが・・・冷たくて・・・。 暖かいものがほしいと叫んだ言葉は、沢田の名前だった。 でも・・・どんなに呼んだって沢田はこない。 どんなに頑張っても、彼の名前にはならない。 言ってるのに。呼んでるのに。 耳に聞こえる声は、違う言葉。 ついてまわるそれが・・・凄く嫌で、恐ろしくなってしまった。 落ち着きを取り戻した久美子をベッドに寝かせると、慎はベッドの脇で袋の中を覗いた。 「雑炊食うか?」 久美子は横になったまま首を横に振った。 何を言っても首を振るばかりで、慎の眉間にも力が入る。 「嫌でも食べろ」 少し怒ったように立ち上がった慎の腕を久美子が掴んだ。 「・・・コーヒーがいいにゃ・・・・・・あっにゃかいの・・・」 先にちゃんとした物を食べろ。そう強く言おうとしたけれど、 テーブルに置かれているマグカップに視線を向けた彼女に思わず口を噤んだ。 赤く腫れた瞳と涙の痕が残る頬を見つめて、またズキリと胸が痛む。 「・・・クリームたっぷりのやつか?」 それを作ったら、お前は笑ってくれるのか・・・? 「・・・にゃー・・・」 まるで想いが伝わったように、久美子は嬉しそうに笑った。 顔色はまだ少し青白いけれど。 その笑顔はいつもと同じ、柔らかく優しいものだった。 マグカップを両手で包み込むようにして微笑みながらコーヒーを飲む久美子を見つめて、 慎はようやく安心することができた。 回復を見せ始めたことと、自分の入れたコーヒーを嬉しそうに飲んでくれていること。 ただそれだけのことでも、押さえ込んで苦しかった心がホッと息をついた気がする。 そして久美子もまた、同じように安心を感じていた。 クリームたっぷりのコーヒーの香り。両手を暖めてくれるマグカップ。 見渡すのは、だだっ広く落ち着いた・・・というか、クールな室内。 もう、冷たいとは思わない。 「・・・この部屋・・・にゃたしは好きじゃないにゃ・・・」 突然の、しかも好きじゃないという言葉に慎の片眉がピクリと上がる。 「にゃわだの部屋じゃなかったら・・・大嫌いにゃ・・・・・・」 表情が硬く、身にまとう空気も不機嫌極まりない。 部屋の趣味に文句をつけられるのは別にどうでもいいけれど、久美子の声で「好きじゃない」「大嫌い」 なんて言葉を聞いて、冷静に聞き流すことができるほど、慎は心が広くもなければクールでもない。 「・・・でも・・・・・・にゃっ?!」 なにか言いかけた声を遮って、慎は久美子の腕を引っ張ると手の中にあったカップを素早く取り上げた。 「にゃっ!にゃんにゃっ!?」 咄嗟に取り返そうとする彼女の両手を片手でまとめて捕まえて、久美子のコーヒーを一口。 「・・・・・・あまっ・・・」 クリームと砂糖の甘さが口の中に広がって、思わず顔を顰めた。 実のところ作るのも、甘いのが苦手な慎にとっては一苦労なコーヒーである。 想像以上にクリームが凄い。 「お前・・・これクリーム入れすぎだろっ」 ブラックは身体によくないと聞くが、これこそ問題だろ・・・と思った。 「そんにゃことにゃいにゃっ!凄くクリーミーでまろにゃかで美味しいじゃないかにゃっ!!」 「まろやか通り過ぎてんだろ・・・絶対・・・・・・」 「にゃーーーっ!嫌にゃら飲むにゃっ・・・にゃっ!?」 怒った久美子が手を振り解こうと暴れだした次の瞬間、慎は久美子の腕をグイッと引っ張り上げると もう片方の手で腰を掴んで、上半身を軽く持ち上げた。 そのままベッドに押し倒し、両手をついて逃がさない。 驚いている久美子に顔を近づけて、慎は言った。 「そっちこそ・・・嫌なら来るなよ・・・」 「にゃっ?!」 あっという間の出来事に驚いて固まっていた久美子はその言葉にハッと我に返った。 慎の表情はあまり変わらないように見えるけれど、その視線や雰囲気には明らかに怒気が含まれている。 その訳に気がついて久美子は慌てて声をあげた。 「そっそういう意味じゃないにゃっ!!おにゃえがいにゃいから大嫌いってことにゃっ!!」 「・・・・・・・・・・・・・」 「にゃわだがいればっ大好きっていおうとしてたにゃっ!!」 そう言おうとしたのに慎がそれを遮ったのだ。 「本当だにゃっ!にゃから誤解にゃっ!」 とにかく誤解を解いて彼の怒りを静めようと必死な久美子は、まったく気づいていなかった。 自分の上にいる慎の心の中には、嬉しさを通り越して、意地の悪い考えが浮かんでいることに。 純粋で正直すぎて。深い意味があるんだかないんだか定かではない言葉。 座ってる時に言われたら、きっと嬉しさと期待に胸を高鳴らせる程度だろうけど・・・。 こんな押し倒してる状態でそんなこと言われては、胸が高鳴るどころの話ではないのだ。 その辺の男心・・・いや、下心を久美子は知らない。 「・・・にゃ・・・?」 フツフツと湧き上がってくる想いを隠しきれず、思わず口元を緩める慎をただ不思議に見上げるだけの 久美子に、慎はさらに顔を近づけた。 「・・・それって・・・俺が大好きってことだよな?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そっそんにゃこといってないにゃっ!?」 たっぷり十秒近い沈黙の後、久美子の顔は真っ赤に染まった。 今更否定したって遅い。逃げ出そうとしたって遅い。 久美子の唇が奪われることは、どうしたって決まっているのだから・・・。 だけどそのキスは軽く触れるだけのものだった。 異変が起きてる彼女にそれ以上のことをしようとは、さすがに思わなかったようだ。 存分に。ベッドの上の腕の中の彼女を抱きしめることまでは、止めなかったようだけど・・・。 そしてその後。彼女は元に戻ることができたらしいが・・・その理由は、不明である。 あとがき 自分で予定していながら、ものすごく中途半端な終わり・・・。 慎クミ好きなのに昔のように書けないのは、2の二人が大きな問題だからです。 特に竜が、ちらついてしょうがない・・・。 台詞考えるたびに、「これって竜もいいそう・・・」とかいちいち思っちゃうんですよ。 竜はこんな感じ。慎はこんな感じ。イメージすることは全然違うのに、細かい所で気にしちゃうのです。 もう多少似たことしてようが、スッパリ割り切って書くべきか。 慎も二人のようにちゃんとした設定みたいなものを作って、読者様に違い(あくまで私の書く小説内)を 明確にお知らせするべきか。 アンケートで「慎クミの設定も読んでみたい」ってご意見下さった方もいらっしゃるので、 やっぱ書いてみようかな・・・と思っています。 そして最後に・・・。隼人編、竜編、慎編、3編の中で「にゃんくみ」の可愛さにやられていたのは、 竜だけだった気がする・・・。 隼人は一日中そばにいられるだけで嬉しくてたまらなかった男だし、 慎は猫とかどうとかではなく、ただ心配してるだけだし。 それに比べて竜は、クールなイメージはどこへやらって感じだった・・・。 それでいいのだろうか、うちの竜は・・・。 |