壁に背を預けて座りながら、拓と久美子は親子の喧嘩を見守っていた。





「生徒のぶんざいで先生に手ー出していいとおもってんのかッ!馬鹿息子ッ!」


「ハッ!テメーの方こそ息子の担任に手ー出していいと思ってんのかよっ!」





「・・・なあ・・・拓君・・・?」


バチバチと火花を散らす二人に視線を向けながら、久美子は隣に座っている拓に問いかけた。


すると拓が声を返す前に、隼人の怒鳴り声が響いた。


「山口っ!!名前呼ぶなって言っただろっ!!」


聞いてないと思いきや、しっかり二人のことが気になっているらしい。


拓は困ったように苦笑いを浮かべ、久美子は慌てて言い直した。


「お、弟君っ」


「はい?」


「いつまで続くんだ?この親子喧嘩・・・。だいたいなにをこんなに激しく争ってんだ?」


親父さんが隼人と自分のことを誤解して怒るのはわかるけれど、隼人の叫んでることはいまいちわからない。


また変な暴走でもしてるのだろうか?


ちょっかい出すだの手ー出すだの・・・どうしたらそういう話になるんだ・・・。


博史の淡い?想いを知らない久美子は、ただ訳がわからないと首を傾げるばかりだ。


「お父さんも隼人兄も、先生のことが大切だから喧嘩してるんだと思います」


拓は二人を眺めがら、微笑んでそう言った。





久美子は知らないだろうけど。凄く珍しいことだった。


こんな風に、この二人が家族以外の人のことで激しく言い争うのは・・・。


だから拓は、嬉しい。


父が先生のことを気に入っていることも、兄が凄く先生を好きなことも知ってるから。


父だって・・・きっと、わかってるんだと思う。兄の気持ちを・・・。


だから喧嘩するのだ。どちらも大切だから。


そうじゃなきゃ、きっとこんなに激しい言い争いにはならないと思うし、する必要もないから。


兄の大切な人。自分にとっても大切な人。家族にとっても、大切な人。


やっぱり先生は、特別な人。


ほんの少しの時間で、先生は、とても大きな存在になっていく。


理由はよくわからないけど。たぶんきっと、暖かいからだと拓は思っている。





「大切・・・?」


親子の喧嘩をどこか嬉しそうに見つめてる拓に、久美子は少し戸惑うように言葉を吐いた。


拓の言葉に・・・僅かに心が揺れた。


(本当に・・・?)


怒鳴りあっている隼人に視線を向けると、久美子の顔が微かに赤く染まった。


すぐにハッとして、恥ずかしそうに手に持っていた湯飲みを両手で握り締める。


ほんの些細な言葉が・・・胸を高鳴らせた。


けれど後に聞こえてきた言葉に・・・高鳴った胸は、急激に沈んでいく。



「だいたい歳考えろっ!!くそじじいっ!!」


「テメーこそろくに就職口も決まってねーガキのくせに、えらそーなことぬかすなっ!馬鹿息子っ!!」


「んなっ!!卒業したら探すんだからいいだろーがっ!!」



「・・・・・・ッ・・・」



ズキンッと、久美子の胸が痛んだ。





就職・・・。卒業・・・。



その言葉が・・・自分でも整理つかないうちに、どんどん入り込んで、久美子の心を深く抉っていた。


知らず知らずのうちに・・・大きく、重く・・・圧し掛かっていく恐怖。


久美子は俯いて湯飲みを床に置くと、自分の腕を無意識のうちに握り締めていた。





「・・・先生?」


久美子の異変に拓が気づいた。


俯き加減の久美子の横顔は、どこか青ざめている。


「山口?」


拓の心配そうな声を耳にした隼人が言い合いをやめて、すぐに久美子の元へと飛んでくる。


「なんだよ、どうした?」


青ざめた久美子の頬に手を伸ばすけれど、久美子は我に返ると慌ててその手を遮った。


「なっなんでもないっ・・・・・・っ!?」


小さく首を振って明らかに何かを誤魔化そうとする態度に、隼人は片眉を上げると、久美子の腕を引っ張って


座ったままの身体を横向きに動かした。


そして背後に膝立ちして、両手を前に持ってくると、のしっと久美子に体重をかけて抱きついた。


「ちょっ!?」


途端にかぁっと赤くなる久美子に隼人の顔に微かな笑みが浮かぶ。


「大丈夫ですか?先生っ。どこか気分でもっ?」


博史も隼人が抱きついていることよりも、久美子の異変の方が心配で気遣わしげな声をあげた。


どうやらこの家族は、いちゃついてる行為に対して、あまり細かいことは気にしないらしい。


久美子ただ一人が慌てふためいていて、かえって動揺している方が恥ずかしくなってくる。


それに・・・隼人のぬくもりを感じて、思わずホッとしていた。


痛みが遠のいていく。けれど、恐怖は消えなかった。


痛みも完全には消えないし、恐怖と一緒に・・・寂しさが心に篭っていく。


無意識のうちに・・・久美子の手は、隼人の腕を掴んでいた。


どうも様子がおかしいと、隼人は眉を寄せる。


「・・・拓・・・?」


久美子を腕の中に置いたまま、窺うように拓を見た。


二人の様子はずっと横目で見ていたし、なにかあったとは思えない。


ただ、自分が一瞬でも逃したことがあったり、気づかなかったことがあったのかと、聞きたかった。


視線を受けて、拓はしばし困ったように首を傾げる。


異変が起きた時のことを思い返してみたり、久美子を見やったりして。


そして気がついた。


必死でしがみついているようにも見える久美子の手を見つめて、微笑んだ。


その微笑みに、隼人が不可解だと眉を寄せる。


ついでに大人気ない嫉妬も含めて。


「拓・・・」


微かに怒りを含んだ声を受けながら、拓は考えてみる。


(どうしよ・・・。・・・何がいいかな・・・?)


首を傾げて悩み始めた様子に、さらに意味がわからない。


久美子は首を傾げながらも見守った。


少しの後、拓は微笑んで言った。



「お花見に行きたいんだって、先生」


「・・・・・・は?」


「・・・え?」


二人は戸惑った。そんな話などしていないことは、隼人も、もちろん久美子も知っている。


それなのに、なぜ拓がそんな嘘を吐くのだろうか?


そんな二人の視線を受けながらも、拓はにこりと優しく微笑む。


「桜が満開になったら、お花見に行きたいって」


「−−−−拓君っ!?」


その意味に気づいた久美子が、顔を真っ赤に染めて声をあげた。


「−−−−っ!?」


その瞬間、隼人の頭にかっと血がのぼる。


「−−−−ちょっと来いっ!!」


隼人は怒りを隠すことなく、久美子を無理やり立たせると、腕を引っ張って外へと連れ出していった。














「大丈夫なのか?あの二人・・・。隼人の奴かなり怒ってたぞ?」


「誤解が解ければ・・・大丈夫だと思うけど・・・」


(言い方間違えたかな・・・?)


変に誤解してしまったらしい隼人に不安はあるけれど、たぶん大丈夫・・・。


少し不安げな表情をしながらも、博史の言葉を聞いて、拓は笑った。


「ま、それにしても、初めて俺のいる時に連れてきた女が先生なんて、あいつもなかなかやるな」


「家に連れてきたのも先生が初めてだよ」


自分がいない時間ももちろんあったけど、それを狙ってそういう人を連れてくるなんてことはしない兄だと


ずっと一緒にいてよくわかってるから。


自分たちにも隠しもせず、兄があんな風に女の人のことを想ったのは、きっと初めてだと・・・


初めて先生にあった時に気づいていたから。


拓は、そう断言できた。


「お父さんは・・・?・・・いいの?」


遠慮がちに問いかける拓に、博史は豪快に笑った。


「俺は奥さんは諦めて、息子のお嫁さんってのに期待することにするさっ!」


「まだ気が早いような・・・?」


「そうか?でも、そうなったらお前のお姉さんだぞ?お前もそうなってほしいんだろ?」


ニヤリと笑った博史の言葉に、拓は優しく笑う久美子の姿を思い出した。


「−−−・・・うん。そうだね」


嬉しそうに、幸せそうに、拓は笑った。

















拓を見つめて、久美子が顔を真っ赤に染めた。


俺だけのものだったのにっ!


なぜあんな風に拓を見た?


ありもしないことと頭ではわかっているのに、どうしようもなく心が苛立った。


名前まで呼んで。


嫉妬でおかしくなりそうだ・・・。








「−−−矢吹っ!!おいっ!!離せっ・・・・・っ!?」


外へと出ると、隼人はアパートの裏側へと久美子を連れていき、壁に押さえつけた。


「名前で呼ぶなっていっただろ?」


・・・低く、冷たい声だった。


きっと顔も、凄く恐くなってる。


ビクリと久美子が震えた。


真っ赤な顔をして、今にも泣き出しそうな表情で・・・。


隼人は様子がおかしかった久美子を思い出した。


嫉妬でいっぱいだった心に、不安なものが浮かぶ。


「なんで・・・泣きそうな顔してんだ?」


あの時も・・・こんな表情をしてた。


俺が近づいたら、すぐに隠したけど・・・。


久美子の頬にそっと触れると、腕をギュッと掴んでくるのがわかった。


「・・・山口?」


あの時も・・・こんな風に微かに震えながら、ギュッと俺の腕を掴んでた。


それが何を意味するのかがわからない。


俯いてしまった顔を上げさせようとしたけれど、久美子は力の緩んだ隙に横から抜け出し、駆け出した。


「おいっ!!」


慌てて腕を掴まえる。


「・・・・・・・・・・・」


それでも久美子は、無言で歩いた。


止めようとしたけれど、久美子が手を振り解こうとはしないことに気がついて


隼人は引き寄せるのをぐっと堪えると、腕を掴んだまま連れられるように歩き出した。

















着いた先は、朝来た桜並木だった。


思わず立ち止まった隼人の手をスルリと抜けて、久美子は桜の木のそばに立った。


朝見た時のように、ふわりと髪が揺れて、大きな瞳には・・・切なさが浮かぶ。


まだ硬い蕾のついた桜の木を見上げる姿は、どこか寂しそうで・・・隼人の胸に痛みが襲う。


なんでこいつは、ここに来た?


嫉妬に狂ってるだけではなにもわからないのだから。





『お花見に行きたいんだって』





拓の言葉が、頭に浮かんだ。





『桜が満開になったら・・・』





そして・・・隼人は気がついた。





拓の言葉の意味も。久美子の異変の意味も。


気づいて・・・胸一杯に嬉しさがこみ上げてきた。


「・・・っ・・・」


かぁっと顔が赤くなって、思わず手で押さえる。


ドクンドクンと鳴り響く鼓動。


嬉しくて、嬉しくて・・・愛しくて・・・たまらない。


(やっぱ馬鹿だ、俺っ・・・)


なんで・・・すぐに気づかなかったんだろう。


切なげな表情も。泣きたいくらいの心情も。


腕にしがみつくような仕草も。


全部。ぜんぶ・・・俺と同じだったんだ。





隼人は、久美子のそばへと駆け出した。


「−−−−っ!?・・・矢吹?」


想いのままに走って、彼女の身体を抱きしめる。


肩に顔を埋めて、息もせずに・・・強く抱きしめた。



不安だった。恐かった。


こいつも、俺も・・・。


そんな風に想ってくれることが、嬉しくて。愛しくて・・・。


そして・・・凄く・・・苦しかった。


なにも言えないことが。言葉に出せないことが、苦しかった。


言いたくても、言えなくて。言葉にすることもできなくて。


ただ・・・抱きしめるばかり。


俺も・・・こいつも・・・しょーもないくらい・・・情けなくて、不器用で・・・


精一杯の言葉は、随分と遠まわしなものだった。





「・・・桜が咲いたら・・・・・・」


抱きしめたまま囁いた言葉に、久美子の身体が小さく震える。


「お前が電話しろよな・・・?」


卒業して。春が来て、花が咲いたら。


その時は・・・お前が俺を呼べよな・・・?


「咲いたかなんて、俺はいちいち見てねーんだから」


肩から顔を上げて、隼人は笑った。


「だから、お前が電話しろよ?」


戸惑い続け、素直に頷こうとしない久美子に、隼人は強く言い聞かせる。


「電話しろよ。絶対・・・」


「・・・・・・・・」


「待っててやるから」


「・・・・・・偉そうじゃないか?お前・・・」


不機嫌そうな声をしながらも、久美子はちゃんと、隼人を見上げた。


「お前よりはいくらか俺の方が素直なんだから、俺の方が偉いんだよ」


「なんだ、それ・・・・・・」


むっとしながらも、久美子は小さく笑った。


隼人の言うとおり・・・素直じゃない自分を知っているから・・・。



「・・・満開になったら・・・な・・・」



素直に頷くことはできなかったけど。「うん」とは、言えなかったけど。


隼人には、それだけで十分だった。














二人の言葉は・・・。


とても不器用で、あまりに遠まわしで、素直じゃなかった。


肝心な言葉も大切な言葉も、言えなかったけれど・・・。








まだ硬い蕾の桜の木の下で・・・隼人が二度目のキスに込めた想いも。


数秒だったけど、抵抗せずに受け入れた久美子の想いも。


願った想いも・・・きっと、同じこと。











もうすぐ春が来る。


新しい生活が始まる。


その中に・・・。


この桜が咲いた頃にも・・・変らずに・・・。


あなたの姿が、ありますように・・・。










あとがき


このお話はこれで終わりです。随分お待たせしてしまいました。

ちょっとスランプ気味なので、書き直したいような。でも今の時点じゃこれが限界か・・・。

そしてお題とまたも微妙にそれている気がします・・・。(苦笑)

隼クミは、終わりが毎回ちゃんとまとめられて嬉しいです。

そしてやっぱり好きだっ!拓くんっ!父博史も好きだっ!

偽者だと言われようと思われようと、大好きですっ!

もう久美子は、矢吹一家の一員ですね。

そのうち実家のこととかも発覚させますので。