キスがはじまる日





「沢田っ!!」

慎のマンションに突然久美子が現れるのは、そう珍しいことではなかった。


が、この日の彼女はどこか違っていた。



ドアがボコボコにへこんでしまうんじゃないかというくらいに、ドンドンバンバン久美子がドアを叩く音で
転寝していた慎は、ノッソリと起き上がった。


「・・・うるせー・・・」


ボソッと呟いて、ガチャリと鍵を回した瞬間、


−−−−−バァン〜っ!!


「沢田っ!!どーゆうつもりだっ!!お前っ!!」


勢いよくドアが開けられ、久美子のドスの聞いた怒鳴り声が響き渡った。


「それこっちのセリフだろ」


なにやら怒っている久美子にも動じず、いつものようにクールな対応の慎はクルリと背を向けて
部屋のテーブルの傍に座った。

その後を追うように久美子も部屋に入ると、慎のすぐ目の前に正座をした。


凄まじい怒気と睨み付けてくる視線を真っ向から受けながら、慎はいつも通りに無表情を決め込みながらも
心の中ではかなり居心地の悪さと戸惑いを感じていた。


(・・・なんかやったか・・・?俺・・・)


昨日、一昨日。ここ数日を考えてみても、久美子が怒る原因がわからない。


勝手に怒ってる奴をいちいち気にかけるほどお人よしでも短気でもない慎だけれど、久美子は特別だった。


と、いうより恋愛感情は普通の男と変らないただの男なのだ。

どんなにクールでも、女に対してあまり興味ない生活を送っていようとも、恋というものは来るものなのだ。


好きな女が自分に対して、酷く怒っている。

べつにやましいことなど何もないとわかっていても、それは辛いことだった。


片思いならなおさら。相手の気持ちもわからず伝えることもできないこの状況の中で、よくわからぬまま
怒られ嫌われ遠ざけられるなんて、考えただけでも苦しい。


ズキリと痛む胸に慎はずっと睨みつけてくる久美子から視線を逸らした。


視線を下げて俯きそうになった時、久美子の膝に視線が止まった。


正座をしている膝の上に、握り締められた久美子の手があった。細く白い手は力いっぱい握り締めているようで
拳が一層白さをまして微かに震えている。


慎は訝しげに眉を寄せると、思わずその握りこぶしに触れていた。


そっと触れた瞬間、久美子の全身がビクリと震えたのを感じて緊迫した空気が一気に流れていく。


慎は自分を落ち着かせるように一息つくと、力の抜けた久美子の拳を解いて軽く指先を握った。


「・・・なに怒ってんだよ・・・・・・」



静かな声で問いかけながら、慎はもう一度久美子と視線を合わせた。


さっきまで物凄い怒気を含んでいた久美子の瞳は戸惑うように揺れて居心地悪そうに視線を逸らした。


微かに赤く染まった頬に慎の胸の痛みが和らいでいく。


顔が緩みそうになるのをなんとか押さえ込んで、もう一度問いかけた。


「俺、なんかしたか?」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


久美子はさらに視線を彷徨わせ、少しの沈黙の後小さく口を開いた。


「・・・・・・たばこ・・・・・・」


「・・・・・・は・・・?」


思いもしなかった単語に、慎は思わず間の抜けた声を上げた。


そしてその声が久美子の怒りを再度呼び起こした。


「は・・・ってなんだっ!?たばこだぞっ!たばこっ!!高校生が吸っていいもんじゃないだろっ!!」


慎の胸倉を掴んで久美子は怒鳴った。


慎はあからさまに眉を寄せて不機嫌そうに視線を逸らした。


心の中で舌打ちしたのが聞こえたのか、久美子の胸倉を掴む手が強まりガクガクと頭と肩が揺れた。


「やっぱりお前吸ってたんだなっ!!今すぐ出せっ!!持ってるもん全部だしやがれっ!!!」


「・・・・・・嫌だ。」


ガクガクと揺する久美子の腕を掴んでやめさせると、短くきっぱりと拒否をした。


「なっ!!わかってんのか?!お前っ!!たばこはな〜〜〜っ!!」


「20歳になんねーと吸っちゃいけなくて、身体に悪いんだろ?そんなの常識で知ってんだよ。」


「わかってんならやめろよっ!!それにお前、一日一箱吸ってるらしいじゃねーかっ!!」


「・・・なんで知ってんの?」


「昨日の放課後南たちが吸ってんの見つけて没収したんだよ。沢田も吸ってんのかって聞いたらあいつら
 心配そうな顔して教えてくれたんだ」


久美子は浮かせていた腰をペタンと下ろし、怒っていた顔を心配そうに歪めた。


「前は大して吸ったりしなかったのに、ここんところなんかすげーイライラしてるみたいで一箱ぐらい
 軽く吸ってるって・・・」


「・・・・・・・・・・・・・・・」


慎は俯いた久美子の顔に心がざわついて、何もいえずに視線を逸らした。



わかっていた。南や内山たちが心配しているのは。

けど、この問題はあいつらに言えるものでもないし、言ったとしてもどうにもできないことがわかっていたから。


どうにかできるのは目の前の女だけだし、どうにかしなければならないのは自分自身だということを嫌というほど
わかっているから余計に苛立たしかった。


簡単にいえば欲求不満だ。いつも見ていたくて、いつも傍にいたくて。


自分でもなんて清らか過ぎる恋だろうかと苦笑いを浮かべている頃はよかった。


それでもやっぱり好きになればそれ以上の感情が湧くのは当然のことで。


ほかの連中のように彼女が欲しいとかそういうことがしたいとか、普通に欲求をもっていればこんなに
苛立つことはないのかもしれない。


でも慎はそういった欲求を久美子に恋するまで、あまり持っていなかった。


恋をした今だってそうだ。合コンに誘われても、告白されても、なんの感情の高ぶりもない。欲求ももてない。


恋をした、この今目の前にいる久美子にだけ・・・どうしようもなく欲しくなる。



触れたくて、キスしたくて、抱きたい・・・。



おかしくなりそうな気持ちを必死で抑えるために、タバコにはけ口を求めた。


他の女では駄目なのだから。慎にはそれしかなかった。


「・・・沢田・・・。なんかあったのか・・・?」



心配そうに顔を覗き込んでくる。その仕草も視線も言葉も、全てが心を揺らす。



「話したくないなら仕方がないけど・・・。タバコは・・・やめてくれないか・・・?」



泣きそうに揺れる瞳で、そっと触れてくる手のぬくもりが心をざわつかせる。



「自分だって吸いすぎだって思ってるんだろう?身体だって壊すことになるんだ・・・。お願いだから・・・」



お願いだから・・・。その言葉が心を狂わせる。



「・・・・・・・・・そこまで言うんなら・・・俺にくれよ・・・」



おかしくなる・・・。



「・・・・・・え?」



抑え続けることなどできはしない。


壊れ、流れ始めた理性に押されるように慎は久美子の腕を強く引き寄せてその身体を抱きしめた。


「・・・お前を全部、俺にくれよ・・・。そしたら・・・タバコなんてスッパリやめてやるから・・・。」



お前を手にできたら・・・タバコなんて必要ない。


お願いだから・・・。


強く抱きしめて肩に顔を埋める慎に、突然のことに固まっていた久美子は困ったような戸惑ったような表情を浮かべた。

けれどそれはほんの少しのことで、久美子の頬は瞬く間に赤く染まった。


恥ずかしそうに、久美子が呟いた。



「・・・そうしたら・・・大切にしてくれるか・・・?」


「・・・!」


小さな呟きに、慎は肩から少し顔を上げた。


思わぬ言葉に胸が大きく高鳴った。


顔に熱が集まりそうになったとき、久美子がまた呟いた。


「自分の身体・・・大切にしない奴は私は嫌いだからな」


(そっちかよ・・・。)


高鳴った気持ちから一気に力が抜ける。


けれど久美子の言葉を思い返して、ふと気がついた。


「・・・・・・お前・・・マジで俺に全部くれんのか・・・?」


冗談で言ったわけではない。


だけど、久美子の言葉はそれを受け入れているような言い方をしていて慎は驚いて久美子を見つめた。


久美子は慎の視線に、顔を真っ赤にして慌てて離れようとした。


「なっ!?そ、そ、そんなわけないだろっ!!だ、だいたい私は物じゃないし・・・・・・っ!?」


離れようとする身体を慎は思い切り抱き寄せた。



久美子は慎の気持ちを受け入れようとしてくれた。


深く考えていなかったとしても、それでも一瞬でもそれを受け止めてくれたことが慎はとても嬉しかった。


「・・・タバコ・・・ちゃんと止められるのか?」


腕の中で、久美子が少し難しそうな顔で言った。


嬉しさに浸っていた慎はその言葉に現実の問題を思い出す。


やめようと思えば簡単にやめられる。久美子にこうも言われたらやめるに決まってる。


それはタバコがただの代わりにすぎないからで。


でもタバコをやめて今までのように理性を保っていれるだろうか・・・。


慎は久美子を抱きしめたままじっと考えた後、抱きしめる腕に力を込めて意を決したように口を開いた。


「ヤンクミ・・・全部とはいわない。・・・今は一つだけでいい・・・」


「・・・・・・え・・・?なに・・・・・・っ!?」


首を傾げて不思議そうに見上げた久美子が問いかけるのを遮るように慎は久美子の唇に触れた。


軽く触れるだけのキスをして、慎はもう一度強く久美子を抱きしめた。


突然の出来事に真っ赤な顔で呆然としたままの久美子は、しばらく後に慎の腕の中で恥ずかしそうに呟いた。


「・・・沢田。お前・・・欲求不満ってやつだったのか・・・?」


「・・・・・・・・・・」


そう直接口にされて言われると、かなり自分が情けない男だな・・・。と、慎は心の中で大きく溜息をついた。


「・・・そ、そうだな・・・。沢田も・・・そういう年頃だもんな・・・」


「・・・それどういう意味だよ。」


むかつく予感に慎の眉間に力が入った。


「いや・・・お、お前・・・あんまり彼女とか合コンとかにも興味ない感じだったから・・・意外で・・・」


(こいつ・・・ぜってー俺のこと男として見てなかったな)


そう思った瞬間、清い恋心がビリビリと音を立てて皮がむけていくのを感じた。


なにが見てるだけでいいんだ。なにが一緒にいられるだけで満足なんだ。


鈍感なこの女にはさりげない言動や清い感情では届きっこない。


慎はこのとき強く悟った・・・。


切ないのを通り越して、かなりむかついた慎をたばこなんかで止められるはずもなく。


慎は思いのままに強引なまでに、恋をすることを決めたのだった。



「ヤンクミ。お前、今日から一日数回俺とキスな」


「・・・はっ?!な、なんだよそれっ!!」


「たばこ、やめてほしいんだろ?」


「そ、それは・・・で、でもっ・・・そ、それに一日数回って・・・」


「OKしないと明日教室であいつらの目の前でキスするぞ?」


「なっ!?わ、わ、わかったっ!!わかったから、そ、そんな恥ずかしいことやめろっ!!」




この日から、慎の欲求不満な日々は終わり、たばこを吸うことはなくなった。



そして久美子の・・・想像も出来ない恥ずかしい日々が始まるのだった。











あとがき


すみません。なんか色々反省点の多い作品です。

あくまで言葉よりも先に手が出るのが私の中の慎であります。

慎に限らず、大抵私が書くとこういう奴になってしまうんですけどね・・・。