「なに唸ってるんだ。さっさと食べろ」

コトンと音がなって顔を上げたら、ダイニングテーブルに器とスプーンが置かれていた。

慌ててその前に座って、スプーンを手に取って。


・・・ずーんと、気持ちが沈んだ。


(・・・う・・・やっぱり凄く優しい・・・)


お粥頼んでおいてくれて。温めなおしてくれて。いつの間にか用意までしてくれて。

やっぱり優しい。

しかもやっぱり自然でスマートだ。(これはただたんに奏がボケッとしているからである)

スプーンを握り締めたまま、がっくりと肩を落とす奏に高村は眉を寄せる。

「言っておくが、レンゲなんて物はこの部屋にはないぞ。スプーンが嫌なら・・・」

そこまで言って。高村は何を思ったのか、いや企んだのか、からかう様な笑みを浮かべた。

「なんだ・・・」

テーブルに片手をつき、上体を屈めて奏に顔を寄せ、

「食べさせてほしいのか?」

そう、囁いた瞬間。


−−−カシャーン


途端にスプーンがテーブルの上に転がり、ずさっと椅子を片脚浮かすほどに奏の身が横へと退いた。

「な、なんでそうなるんだよっ!そんなこと言ってないだろっ誰もっ!!」

バンバン、テーブルを叩きながら叫ぶその顔は熟れたトマトのように真っ赤に染まっていて、高村はくつくつと笑みを零す。

奏はムカムカして転がったスプーンを引っ掴んだ。

「なんだよっ人がせっかく謝ろうとしてんのにっ!」

スプーンをお粥の中に埋めて、いっぱいに盛られたそれをバクッと口に入れようと・・・

「謝る?」

「うっ」

笑みを零していた高村は笑みを引っ込めて奏の手を掴んで止めた。

「火傷するぞ?」

問いかけた途端に「うっ」と固まるのを後回しにして、スプーンを戻させる。

音を立ててお粥の中に沈んでいくスプーンを見つめながら、奏は自分の情けなさを思い知った。


「・・・ごめん・・・。」


スプーンでお粥をかき混ぜながら小さな声がポツリと零れる。

「関係ないなんて言っといて、結局面倒かけて・・・。仕事だって、疎かにした・・・」


だから、ごめんなさい。


頭を下げるように顔を伏せて、ただ今は何よりも謝らなきゃと思うのに。

一つ口に出すと、思い出はせきをきったように溢れ出した。

音を立てて、胸の奥が痛み出す。

けれども頬を掠める立ち上った湯気の温度に、不思議と気持ちも和らいでいくような気がした。


「・・・図星、だったんだ。」


結婚の報告をされて、気持ちが揺れてた。


「わかってたけどさ、本当だってちゃんとわかってたけど、でもやっぱり・・・

直接言われるのは、ショックだったのかも・・・」


傷ついた表情で小さく笑う。

目の奥が熱くて、視界が揺れて。

涙がこれ以上滲まないように奏は振り切る様に顔を上げた。


「でももう、大丈夫だから。ちゃんと仕事も頑張るし、由梨姉がいなくても・・・一人でも、頑張る・・・」


いつだって、言葉にするのは簡単だった。心の中で言い聞かせるのも、簡単だった。

ほら、こんなに簡単なんだから、全然大丈夫なんだって。

でもそうやって強がることで守っていたのは、彼女だったわけじゃない。

弱い自分を、隠したかった。



結局のところ、ひとりが怖いだけなのだ。


一人きりになる自分が怖かった。



いつまでも忘れられない温もりがあるように。いつも優しく微笑みかけてくれた顔が胸の奥を一杯にする。



やっぱりとても大好きなのだと・・・。



溢れかえる涙はどうしようもなくて。それでも拭おうとする手は、高村の手に遮られた。





「どれだけ泣けば気が済むんだ?お前は・・・」


「え・・・」


押し殺すような低い声に奏は目を瞠った。

見上げた先で鋭い眼は苛立ちに染まり、表情には険しさが浮かんでいる。

身にまとう空気は、明らかな怒りを露にしていた。

溜まっていた涙が自然と頬を伝い流れて、見据える高村の顔が歪む。

綺麗だからこそ、怒りが込み上げてくる。


奏の両手首を片手で強く掴み上げ、無理やり立たせて唇を塞いだ。

茫然としていた瞳が慌てて瞼の奥へと隠れ、

逃げようと身を捩る仕草に両腕を束ねたまま、頭上高くへと持ち上げる。

爪先だけが床に触れて、細い身体は、宙吊りにされたように揺れた。


どんなに暴れようと、この細い身体が逃げられることはない。

そう思うだけで、背中がぞくりと疼いた。



いつだって、腕に抱くのは簡単だった。手に入れるのも簡単だった。

けれどそんなものは単なる形だけに過ぎない。言葉だけに過ぎない。

奏があの女を想って泣くたびに、思い知るのだ。

どんなにこの手にあろうとも、心の中には決して触れられないものが、あるということに・・・。



「痛っ・・・っ!?」

かぶりを振って、逃げることを止めない奏をテーブルに押し倒し、そのまま深く口付ける。

「んんっ・・・ん・・・!」

追い詰めるような激しいキスに奏の眉根が苦しげに寄る。滲む涙を舌で舐めれば、瞑った瞼が震えた。

「奏・・・」

このまま抱いてしまおうか。

腕に抱いて。身体の奥深くまで自身を刻み込めてしまえばと、首筋に顔を埋めた。

「な、なんだよっ・・・!?」

そんな欲など気づきもしない奏は、反射的にビクリと震えてテーブルの上でジタバタもがき始める。

仰向けの身体を何とかズリズリと横に逃げ出そうとしても、高村の唇は奏の肌を追った。

「嫌だっ・・・ちょっ・・・触るなってっ!」

顎のラインにキスを落とせば、舌の感触に喉が震える。

「嫌だった言ってんだろっ!!」

無理やり押し退けようとして、自分の体勢がさっきよりも厳しいことに気がついた。


(しっ、しまったっ・・・!腕がっ!)


右側を下に横向きになってしまった所為で片腕しか思うように動かせない。

しかも上に圧し掛かってる男の手がテーブルを這うしかない右腕を押さえつけて、顔を近づけてくる。


「諦めろ、奏・・・」

お腹の辺りまで響くような低声が耳に響いて。

奏は、自分の心臓が大きな音を立て始めるのを感じた。

どくん、どくんと、自分の鼓動が響いているのがわかる。

身動きも取れず、ただじっと不自然に鳴る音だけを聞いているしかないこの状況が、奏を不安にさせた。


なんなんだろう

なんで、テーブルの上に寝てなきゃならないんだろう。

(・・・・・・)

それに凄く今更なことなんだけれど。

「・・・あの、さ・・・?」

妙に胸がざわついて、聞かずにはいられなかった。

「あ、諦めて・・・俺、ど、どう、なんの?」

なんとも変な質問だけど、他に聞きようもないのだから仕方ない。

声が震えてしまうのは、答えを聞くのが怖いからだ。


「言っただろう?犯されたくないなら、普通にしろと。」


泣いたりする、お前が悪いのだと・・・


その瞬間、なんだよそれー!と悠長につっこんでいる暇はなかった。



犯される。


奏には、その言葉だけで十分だった。




「ふ、ふざけんじゃねーーっ!!は、ははっ離せっ!!離せよっ!!」


奏は一心不乱に叫びながら、真っ青な顔でジタバタするとこれでもかと叫んだ。


「なんで俺がっこんなとこで殺されなきゃならないんだよっ!バカヤローーッ!!」


「・・・・・・・・・」


これに驚いた、いや、訝しげに眉を顰めたのは、ちょうどシャツの中へと手を入れようとしていた高村である。

船に打ち上げられたばかりの魚のようにジタバタする奏から上体を起こして、怪訝に首を捻る。

「・・・何の話だ?」

「何の話ってっ・・・はっ!!」

のんきとも思えるような問いかけにギッと睨みつけ、はたっといつの間にか自由になっている腕に気づく。

慌てて飛び起きて素早く脇を駆け抜け、奏は、こけた。


「おい・・・」

思いっきり膝を打ち付けたらしく、ううっ・・・と蹲る奏に手を伸ばそうとするが、恨み辛みを込められた瞳でじとりと睨まれる。


「呪ってやるからなっ!」


そう威勢良く、張り上げた声は誰が聞こうと強がりだった。

大きな瞳が怯えと涙でうるうる揺らめいている。


そんな瞳で見上げられたら・・・。


額を手で押さえて、高村は脱力気味に溜息を吐いた。


(なんでこれは、こんなに馬鹿で、こんなにいちいち可愛いんだ・・・)

高村は当然のことのように思う。

馬鹿なところまで可愛いなんて。

というか、奏の言動で可愛くないものは無いんじゃないかという気さえしてくる。


脱力感をやり過ごし、しゃがみ込む奏へと腕を伸ばす。

脇腹を掴んで立たせようとすれば、

「う、嘘じゃないからなっ!!」

と、弱々しく抵抗しながらも腕の中に納まる。

「お、おばあちゃんと80歳以上は生きるって約束したんだっ・・・!だからっ今殺したって、成仏なんかしないんだからなっ!!」

「ああ、そうだな。」

「・・・・・・?」

頷いて、硬直する背中を撫でる。

怯えていた瞳が不可思議なものを見るような色に変わり、ゆっくりと首が傾いた。


「・・・殺さない、のか・・・?」


「殺してほしいのか?」


「いっ嫌だっ!!」


青い顔でブンブン首を振る奏に、高村は苦笑を零す。

その和らいだ表情の変化に、奏はやっと胸を撫で下ろした。


「なんだ、よかった・・・」


「どう勘違いしたら、殺されるなんてことになるんだ」


「だって、あんたが言ったんじゃないか。犯すって・・・、あ・・・こ、殺すんじゃないなら、いったいなんの罪を犯すつもりなんだっ!」


ぐっと胸を押し返して、後ろに下がる。


「罪・・・?」


ああ、それで・・・。


(・・・まあ、間違いはないが・・・)


まさか「犯す」をそう取られるとは思ってもいなかった。



「・・・言っとくけど、俺のシャツはワゴンセールの500円物だし、ズボンだって1000円くらいしかしないから。」


「・・・・・・」


真面目な顔で言われ、別の意味で頭痛を感じそうになった。



「ぼう・・・」

暴力・・・。そう言い掛けて、奏は「でもこれは違うよな」とブツブツ呟く。

殴られたわけじゃないし。目の前にいる男が、普通に殴るとは思わない。

殺されそうだと思うことはあるけど。


じゃあ他に、どんな罪があるんだろう?


ちょっとした好奇心も湧き始めたらしく、真っ直ぐな瞳が高村を見上げた。



「・・・・・・」


さすがに強姦と監禁の2セットな罪を犯そうとしていたとは、言えない高村だった。






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