毎日のように辛辣な言葉を浴びせられている晴季にも、一つだけ心が休まる時間があった。

夕焼けが差し込む放課後の図書室。静かで穏やかなその部屋の片隅で本を読むことが学校で唯一の楽しみだった。

沢山の本の中で晴季が読むのは幼い頃から変わらずにほとんどがファンタジーもの。

塔に幽閉されたお姫様のお話や、森に迷い込んだ主人公を惑わす妖精のお話。

大空を飛び回る飛竜の背中や、天空のお城が出てくる壮大なものまで。

決して現実ではありえない、そんな夢物語に身を委ねるのが好きだった。

そうしてその日も本の世界に入り込んでいた晴季のそばで、コンコンと音が響く。

ハッと顔を上げれば、机に片手を付いて微笑む、眼鏡を掛けた知的な学生が晴季を覗き込んでいた。

「先輩っ!」

「佐々原は今日も熱心だね。」

目を丸くして胸元に本を抱き締める姿に、朝日奈は眼鏡の奥の瞳を和ませる。

「ご、ごめんなさいっ。あ、もうこんな時間っ・・・?」

時計を見れば下校時間からだいぶ経っていて、焦って椅子から立ち上がった。

「ああ、そんなに慌てなくても大丈夫だよ。今日は先生達がまだ返しにきたりするそうだから。」

慌てふためくその様子を楽しそうに微笑まれながら止められて、恥ずかしさにかあっと頬が熱くなる。

「遅くなっても困ると思って一応声を掛けたんだ。」

まだ読み足りないなら、もう少しくらい居ても大丈夫だと思うよ。

そう言いながら自分の腕時計の針を確認して、「それじゃまた」とにこやかに彼は図書室を出ていった。

「あっ、さようなら・・・っ!」

ブンッと、頭が落っこちそうなくらい深く頭を下げて、読みかけだった分厚い本をギュッと胸に抱き締める。

頭が良くて、顔も性格もクールでカッコよくて。そして優しい。

図書室で出会った朝日奈は、晴季にとって憧れだった。

自分もあんな風になれたらな・・・。長めの前髪の下で、そっと目元を緩ませる。

なれたらな、と思った瞬間、そんなこと無理だけど、なんて苦笑いを浮かべている内は何にもならないとわかっているけれど。

彼のようになった自分は、想像するだけでも。物語りのように現実ではありえないことにしか思えなかった。

でも先輩のようになれば、少しは辛い言葉以外も言ってもらえるかもしれない。

ふいにそんなことを考えて。晴季は首を振ると、本を棚に戻そうとくるりと身を翻そうとした。

「っ・・・!?」

その時、ふと目に入った入り口のドアに人が立っているのに気が付いて思わず目を見開く。

片手をズボンのポケットに突っ込んで近づいてきたのは、黒川だった。



「あいつと何してたんだよ。」

「あ、い・・・つ?」

機嫌の悪い声で問われて、ビクリと身体が竦んでしまう。

最初は何を言っているのかわからなかったけれど、「あいつ」が朝日奈のことだと気づいて首を振った。

「別に・・・何も・・・っ」

途端、ガンつけられるようなギラついた目で睨まれて、足がガクガクしてくる。

どうしよう、怖いっ・・・。

背筋が震え上がって後退さろうとすれば、

「・・・赤い顔しやがって・・・」

「え?」

ボソリと呟かれて、ガシッと腕を掴まれる。

ヒッ、と思わず情けない声を上げてギュッと目を瞑った瞬間、

「ヤラシイことでもしてたんじゃねえの?」

掴まれた腕を強く握り締められたかと思えば、笑みを滲ませた歪んだ声がすぐそばで聞こえた。

「なに、いって・・・・・・っ!?」

嘲笑うかのような声色にかあっとなって顔を上げたその時、何かに唇を塞がれる。

ビクッと硬直した目の前にはジロッと突き刺してくるような黒川の双眸があって。

晴季は怯えるように瞳を瞼の奥に引っ込めると、黒川を強く押し返した。

「な・・・なに、してっ・・・」

重なり合っていた口元を手で覆って、信じられない思いで黒川を見やる。


キ、ス・・・だった?・・・なんで・・・なんで?


自分の身に降りかかった事態にうろたえて、頭の中がグルグルと渦をまいてこんがらがる。

それでも気持ちを何とか落ち着かせて黒川が言った言葉を思い出してみた。

ヤラシイことって。あいつって。

それって、先輩と?!

「せ、先輩がこんなことするわけないじゃないっ・・・な、何考えてっ・・・!」

とんでもない誤解の仕方と恥ずかしい内容に晴季は顔を真っ赤にして声を振り絞った。

「何動揺してんだよ。」

震えて上手く言えないのを余計に誤解されたのか、再び鋭い眼でガシリと腕を掴まれる。

「い、いきなりあ、あんなことされたら誰だってっ・・・」

オドオドする身体を引き寄せられて、晴季は逃げる余裕もなくて余計にビクビクと怯えてしまう。

それでも、嫌がらせにしては性質が悪すぎるし、それに、

「こ、こんなの駄目だよっ・・・」

「・・・何が駄目なんだよ。」

ジワリと涙さえ浮かび始めている顔をもっと近くで覗き込むように黒川の腕が晴季の背中に回された。

抱き締められているのにもいまいちよくわかっていない晴季は、ただ声を絞り出すのに必死だった。

「だ、だって、いくら嫌がらせだからって、こんなの駄目だよっ。彼女が、悲しむよっ・・・!」

たとえ深い意味は無い、遊び感覚のものだったとしても、彼女にとってはきっと辛いことに違いない。

真剣な思いでそう告げれば、きっと自分のしたことの重大さに気づいてくれるはず。

そう、思ったのもつかの間、

「あ゛っ!?なんだよ、彼女って。」

驚いたような声で言われて、晴季はつられるようにビックリして黒川を見上げた。

「な、なんでそんな言い方っ・・・。と、隣のクラスの早瀬さんと付き合ってるんじゃ」

「あ?」

「・・・ち、違うの・・・?」

ここのところしょっちゅう一緒に居て一緒に帰ったりしてるから、てっきりそうなのかと思っていたのに。

「あんなの付き合ってるっていうかよ。遊びに決まってんだろ。」

「そっ、そんなっ・・・!」

確かにいつも彼女の方が一方的に腕に腕を絡めたり、恋人みたいなことは彼女ばかりがしているみたいだけれど。

それでも、遊びだなんて・・・。

でも、彼にしてみたら普通なのかもしれない。

自分だって、暇つぶしのような扱いしかされていないのだ・・・。

そのことに少しだけ胸の奥を痛めていると、背中に回された腕に力が篭った気がした。

「そういや・・・ちょうどいい・・・。」

「・・・?」

ギュッと抱き締められる腕の感触を不思議に思いながら晴季が顔を上げれば、彼の鋭い双眸とぶつかった。

じっと見下ろしてくるその眼差しは、何だかいつもと違うような、何か強い感情を秘めているような気がして。

晴季も思わず真剣な面持ちを浮かべたのだけれど、


「リカの奴は風邪で一週間休みらしいからな。その間、お前があいつの代わりになれよ。」


「え・・・?」


続けられた彼の言葉は、冗談としか思えない、とんでもないものだった。







「おい、いつまで寝てる。」

ぐわんぐわんと揺れる頭に状態をぐらんぐらんさせていると、ベシベシと頬を叩かれた。

靄が消えるように意識ははっきりしてくるけれど、出来ればはっきりなんてしたくなかった。

あの後、嫌だ嫌だそんなの変だよ、何言ってるの、とイヤイヤとむずがる子供のように逃げる身体を捕まえられて彼のバイクに乗せられて、

晴季は今、黒川が住んでいるマンションの前に連れてこられてしまっていた。

早瀬さんの代わりってなんだろう。何するんだろう。

遊びどころか、彼氏彼女の関係になった人すら未だいない晴季にとって、それはまったく想像もできないことだった。

でもきっと代わりというのは冗談で、ただ彼女がいなくて暇になったから、晴季で暇つぶしをしたいだけなのだろうと思う。

さっさとマンションへと入っていく背中に晴季は暗くなる思いに背中を丸めた。

どうしよう。逃げ出したい。

そう思ってオドオドしていると、

「おい、さっさと来いよ。それと、家に電話入れとけ。今日は泊まるってな。」

と、泊まるっ!?

いちいち携帯に邪魔されるのもうざいだの、お前見るからに甘やかされてそうだし騒ぎになったら面倒だのいいながら、

勝手に人の鞄の中から携帯を取り出してかけさせようとする目の前の黒川に、晴季は一瞬絶望に気が遠くなるのを感じた。



掃除とか洗濯とかやらされて、さんざん扱き使われながら、

トロい、鈍くさい、使えねぇなんて言われ続けるなんて・・・・・・



今日こそ本当に、心が折れてしまいそうな気がした。







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