****** まだ何も、知らなかった頃。 自分は知っているつもりでいた。 冷めた表情の裏にある、信念や情熱や患者への誠実さも。 だからこそ、理解できない彼の言動が許せなかった。 すぐそばにあったはずの存在が突然手の届かないところへと去られ、苛ついた。 結局は自分が一番、何一つ知らなかったというのに。 その事実を自覚してもまだ、抑えられた。 自分だけのものがあると錯覚していた。 『俊介さん・・・』 躊躇うように、ぎこちなく告げられたその響きが、いつまでも耳の奥から離れなかった。 「・・・先生?」 気づけば、いつの間にか立ち上がっていた都倉が怪訝な視線を向けていた。 視線が合うと、軽い溜息を吐いて水槽へと背中を預ける。 「コーヒーでもと思いましたけど」 お帰りになられては? そう告げる表情は、冷たいポーカーフェイスに覆われ。 迷惑そうな雰囲気の裏に、自分への気遣いがあることを今は感じ取ることが出来るのに。 けれどこんな時、相手がもしもあいつなら・・・。 きっと彼は、こんな顔などしないだろう。 『俊介さん・・・』 言い馴れていないぎこちなさが、心地よかった。胸が騒いだ。 ただの呼び名一つを、特別な響きと思い込んでいた。 それが二人の距離を表していることにも気づかずに。 信哉の名前を呼ぶ、その声に。その雰囲気に。 自分が彼の中でどれだけ遠い位置にいるのかを思い知らされたのだ。 「泉田先生?」 目の前にいるその存在を確かめるように、手を伸ばし、片手を掴み取る。 手の中に握り締めれば咄嗟に振り解こうと力の篭る腕を、今度は逃がさないというように強く引き寄せた。 「・・・っ?」 背中に手を回して深く抱き締めれば、困惑したような息が零れ落ちる。 腕の中に閉じ込めた身体が強張っていくのを感じて、俊介は沸きあがる優越感に気分を高揚させた。 ずっと、こうしたかった。 閉じ込めて。この身体を自分のものに、したかった。 「なに、を・・・」 躊躇いがちにも逃れようとするのを腰を強く抱き寄せ、封じ込める。 泉田先生・・・。 そう、呼びながら突っ撥ねようとするその耳元で吹き込むように囁いた。 「−−−俊介だ」 「っ・・・?」 耳を掠める低い囁きに都倉の喉が僅かに引き攣る。 息を呑んだ後でギリッと噛み締める音を聞いた瞬間。 抵抗されるよりも先にデスクの上へと彼の肩を押さえつけた。 「っ!?」 低く狭いデスクに無理やり縫い付けられ、痛みに顔が歪む。 「なんのつもりですか」 苦しささえいつもの声音の中に抑えこんで。鋭い光を帯びた瞳が、俊介を睨みつける。 上から見下ろす表情を読み取ることは出来ず、ただ、いつにもまして感じる高圧的な雰囲気が都倉の背中に嫌な汗を流させた。 何かまた、反感を買うようなことを自分はしたのだろうか。 苦しげに眉を顰めながらも都倉は記憶を辿るが見つけることは出来ない。 けれど片隅に浮かんだ思いに胸が急激に冷たくなっていくのを感じた。 彼はまだ、自分を認めてはいないのだろう。 認めてもらうつもりも、認めてほしいなんて思うつもりもないけれど・・・。 彼の母親や妹のことを考えれば、愛人の息子である自分が本来ならここにいるべきじゃないことは一番よくわかっていた。 それでも、病院のためには自分の力が必要であり、そう思うことを許してくれる人達がいる。 それが最善なのだと思えるからこそ、こうして今の場所にいられるのだ。 けれど本音と建前があるように、気持ちには裏表がある。 病院を守るための気持ちと、家族を守るための気持ち。 そのどちらの想いも人一倍強い彼には、自分という存在は恐らく一番のジレンマなんだろう。 名前を呼ばせて、いっそのこと膨れ上がっているものを爆発させたいのかもしれない。 決して好い気分ではないだろうと思うから、あの時以外口にするつもりなどなかったのに。 「・・・俊介さん・・・。 −−−・・・そう呼べば、満足ですか?」 そんなことをしたって、どうせ苛立ちを募らせるだけだというように呆れた声で告げて、冷めた瞳を溜息と一緒に瞼の奥に押し込める。 殴られるのを承知で大人しくしていれば。 けれど、与えられたのは。暴力という痛みとは随分とかけ離れたものだった。 「馬鹿いうなよ。全然・・・、足りない。」 「っ・・・?!」 囁く吐息をすぐそばで感じたかと思えば、唇を塞ぐように押し当てられ目を見開いた。 一瞬、何が起きているのかもわからずに真っ白な思考で硬直する。 思ってもいなかった事態に唖然としている間に唇は離され、覆いかぶさるように顔を近づけている俊介は都倉の瞳を覗き込んだ。 「もう一度、言ってくれないか。」 口調は柔らかでありながら、両脇についた腕は、逃れることを許さない檻のように都倉を閉じ込めていて。 あまりのことに硬直したままの表情を見下ろすと、再び唇を重ね合わせる。 掠める程度の先ほどの軽いキスとは違い、深いと呼べるものだった。 そこまできて、ようやく都倉は尋常じゃない事態に抵抗を見せた。 「っ・・・ぅ!?」 入り込んできた舌は、好き勝手に口内を蠢き蹂躙される。 上あごをなぞられ、舌を絡め取られ、っ・・・と瞼を震わせて都倉は思わず目を瞑った。 途端に背中を駆けていこうとするものに頭を振って引き剥がそうと俊介の白衣を掴んで引っ張るが、 頭を深く抱き込んで圧し掛かってくる身体はビクともしない。 水音さえ響き始めると羞恥と屈辱に目元が朱に染まった。 「は・・・っ」 名残惜しそうに唇が離れ、苦しげに息を吐き出しながらも圧し掛かる相手を押し退ける。 思いの外あっさりと身体は離された。 デスクへと手を付き、濡れた唇を手で拭いながら、目の前に悠然と立つ男を睨み付ける。 けれど俊介は息の上がった都倉の様子を何も言わずただ見下ろすだけで。 その読み取ることのできない雰囲気に、都倉はざわつく胸を隠すように背を向けた。 いい様のない、恐怖に近い感情をぐっと押さえ込む。 上がった息が元に戻れば、もう何も残らない。 どんな理由でこんなことをするのかなんて知りたくもない都倉は俊介の脇を通り過ぎようとしてガシリと腕を掴まれた。 「・・・まだ、満足できないとでも?」 冷たく、嘲るような声で問う。 答えなんて初めから必要じゃない都倉はそのまま歩き出そうとするが、再び抱き寄せられてしまった。 「そうだといったら?」 「っ・・・!?」 低い囁きと共に白衣の奥へと手を忍ばされ、脇腹へと這う手に愕然と息を呑みこんだ。 「こんなっ・・・ことを、して・・・」 逃げようにも首の後ろを押さえられたまま服の中へと無遠慮に手を這い回され。その感触に喉が引き攣る。 白衣の前を広げられ、素肌に触れてくる手が胸元を滑る度にビクリと背筋を戦慄かせて、ギリッと俊介の服を握り締めた。 腕の中でもどかしげに乱れていくのをじっと見つめていた目に、笑みが滲む。 ぐっと唇を噛み締めた都倉は、剣呑な眼差しで俊介を睨みつけた。 「俺を、怒らせたいんですか」 それにしては性質が悪すぎると言い募れば、俊介は笑みを零したまま囁いた。 「別に、怒らせるつもりでやっているわけじゃないんだが・・・」 なら何なのだと、怒りの篭った視線を向けるが、次の瞬間には突然床へと押し倒され、 続く言葉に都倉は抑え切れない屈辱に表情を歪めて顔を逸らした。 「ただ、泣かせてみたくなっただけだ。・・・こういう、意味でな。」 「・・・ッ・・・」 スルリと下がる手にズボンの上から下肢に触れられ、敏感になっていた身体はビクッと跳ね上がった。 都倉は零れ落ちそうになる声を咄嗟に唇を噛み締めて抑えこむ。 怒らせるよりも性質が悪いやり方に、驚きよりも悔しさや苦しさが込み上げてきて。 俊介の言うとおり、薄っすらと涙が滲みそうになった。 強く、何かを抑えこむように歪んだ表情が何を思っているのかわかっていても。 俊介は否定することもせず、ただ彼の露にさせた首筋に噛み付くように唇を寄せた。 組み敷いて、無理やり抱こうとするこの想いは、決して綺麗ごとでは済まされないだろう。 それでも欲しくてたまらなかった。 次へ・・・ |