「服はクリーニングに出しておいたわよ。帰る前には、届くはずだから。」 秘書室のドアを開けて入ってきた女性の言葉を聞いて、奏は頭にかけているタオルの両端を顔を隠すように掴んで項垂れた。 「ご・・・ご迷惑をおかけします・・・」 うう・・・と肩を落とす奏に女性―高村の秘書である沢木冴子は、小さく苦笑した。 受付から彼がびしょ濡れだというのを聞いた時は何事かと慌てたけれど。 ただ横を猛スピードで通り過ぎた車に水溜りの水をぶっ掛けられただけだと聞いて、ほっとした。 「それより寒くないかしら?大丈夫?」 出入りしている業者が置いていった飲料メーカーのロゴが入った大きめのジャケットに、中には医務室で借りた薄手のシャツを着ているけれど、 初夏とはいえ濡れた体はやはり冷えるかもしれない。 そう思って膝を曲げて顔を覗けば、奏は少し首を傾げた後、大丈夫だと首を振った。 冴子はニッコリと微笑んで、けれどふと苦い顔をして視線をあらぬ方向へと向ける。 「・・・でも、あれね。社長が外出していてよかったわ」 「え・・・?ちゃ、ちゃんと昼休みにしていいって言われてから、行ったからなっ!」 別にサボったわけじゃないんだと焦ったように言えば、冴子は楽しそうに笑った。 「ふふっ。大丈夫、そういう意味じゃないわ。心の狭い人間に呆れてるのよ。」 「心が、狭い?」 問い返す奏にニコリと微笑んだ。 (あれは、狭いわよね。) もしも社長がいたなら、この子は会社を出ることも許されなかったはず。 たぶん午前中に手伝っていた課の人に昼休みの了解を貰ったんだろうけれど。きっとそれにたいしても気分を害しただろう。 (この前も奏くんがちょっと外にお使いを頼まれて外出してただけでキレかかってたのよね) 「・・・まあ、相手があなたなら、わからなくもないんだけど。」 ニッコリと微笑んで、冴子は不思議そうに首を傾げる奏の頭を撫でる。 頭からズレ落ちていたタオルで濡れた髪を拭いてあげながら、冴子はそっと優しい眼差しを奏に向けていた。 私も少し、過保護かしら。 人のことは言えないと思いながら、それを止めようとは思わない。 それが少しだけ不思議な気持ちにさせるけれど。でも、それもきっと理由があるはず。 −−−・・・ずっと、何かが心の隅に引っかかっている。 奏を初めて目にした日から・・・。 何かを忘れている、そんな気がしていて−−−。 「そういえば要さんは?」 「要は経理でトラブルがあってね。そっちに行ったっきり。もうそろそろ帰ってくるんじゃないかしら」 要(カナメ)というのは冴子と同じ、高村の秘書で冴子の弟でもある人だ。 奏は姿が見えないその訳を聞いた後、ふと不思議そうに首を傾げた。 「前から不思議だったんだけどさ。冴子さんも要さんもあの人の秘書なのに一緒に外出したりしないよな」 秘書っていえば、社長についてまわってるもんだと思っていたのに。 この一ヶ月、この会社で働いていても。二人が付き添っているところなんて数えるほどしか見たことない。 彼女達がしている秘書の仕事といえば、社長宛の電話対応や事務対応、スケジュール管理とかだけらしいし。 「ようは面倒な仕事ってこと。でも、毎回ついて回るなんて私達だって願い下げだから大いに結構。 人に付き添ってご機嫌伺う生活なんて、私も要も死んでもごめんだもの」 「そ、そうなんだ・・・」 鼻で笑い飛ばしそうなほどあっさりと言ってのける有様に、奏はちょっと引きつる。 少しきつめな印象を受けつつも艶やかで美しい冴子は、魅惑めいた唇を持っていても、その口からでる言葉はストレートでキツイ。 その殺伐とした性格は、やはり秘書には向いてないのかもしれない。 「でもさ、社内の他の仕事もしててスケジュール管理とかもして。これでお茶くみとかしてたら、俺がビシッと文句言ってやれたのに・・・」 奏はむむっと眉を寄せて、気難しい顔をする。 「・・・自分でコーヒーとか用意してるなんて、あの男ってホントに社長なのか?」 てっきり、茶っ!とか言って秘書を平気でこき使うようなタイプだと思ってたのに。 意外や意外。あの高村という男は、ただのインスタントだけれど自分で勝手に作っているのだ。 しかもついでというように、そばにいるときは奏の分も作ってくれている。 会社への行き来も、てっきり運転手とかいるかと思ったのに。それも付けないで自分で運転してるなんて。 奏は、自分の中の「社長」というイメージがことごとく覆されていくような気がして、ちょっと悔しいような残念なような気がしていた。 「でもそれって・・・やっぱり大人っていうか、優しいっていうのかな?」 変な男だと思うのに変わりはないけれど。 「社長は、他人に煩わされるのが嫌いなだけよ?他人をいちいち呼ぶのも、視界でウロチョロされるのも 自分以外に神経使うのさえ面倒な人間なのね。」 他人へ向ける「気」なんて、会社のために取引先やら業界人やらに必要最低限使うくらいかもしれない。 はっきりと言い切られて、ふと思う。 「もしかして、人間不信とか・・・?」 「あれは不信じゃなくて、興味がないだけね。」 「あ、そう・・・」 またまたきっぱりと断言されて、もう呆れを通り越してうっかり尊敬しそうなほどだ。 「あら・・・でも、奏くんは特別なのよ?」 この瞬間を見計らっていたらしい。冴子の表情が途端に意味ありげな笑顔に変わった。 けれど、奏は特に何の関心もないように、ただちょっと首を傾げて、ふーんと頷くだけで。 (あら・・・?) これには冴子も首を傾げた。 てっきり、照れたりはしないものの。驚いたり、怒ったりするかと思っていたのに。 実にあっさりとした反応に返って疑問に思ってしまう。 「そうね・・・。あれだけあからさまなんだもの。特別扱いされてるなんて、今更、かしら?」 そう言いつつ、少し違うような気がして。 そしてその違いは当たったようで。奏は、なんとなく嫌そうに眉を寄せた。 「特別扱いとか言われるのはなんか嫌かも。あれは俺が甥ってことになってるから他と違う感じに接してるってだけだろうし、 それって特別扱いとは違う気がするけど」 「それは、そうね・・・?」 (まさか奏くん・・・社長の態度が全部そこから来てるものだと思ってるのかしら?) 甥なんてことにしていること事態がそもそも特別なのだけど・・・。 「それにあの男・・・俺のこと猫とか動物くらいにしか思ってないから、興味ない人間以前の存在なんだよ、たぶん」 だから回りからみたら、特別とか態度が違うとか思うんだ。 「失礼だよな!・・・て、言えるような立場じゃないけどさ・・・」 はあ、と溜息を吐く。 冴子は呆然としていた。 開いた口が塞がらないとはこういうことをいうのかしら・・・。 ちょっと鈍いとは思っていたけれど。少し思い込みが激しいような気もしたけれど。 まさかこんなにもすっ飛んだ意見を持っているなんて・・・。 しかも思いっきり見当違いの場所に向かってるのに、気づきもしないで一人元気に爆走中? 少し眩暈を起こしそうな冴子だったが、案外立ち直るのは早いらしい。 「そうよね〜。動物扱いするなんて、なんて酷い話かしら。私は一人の人として、奏くんがとっても大好きよ」 ニッコリと笑顔を浮かべて奏の頭を優しく撫でる。 綺麗な笑顔と優しい言葉に、奏は恥ずかしそうに頬を染めた。 「え、えっと・・・ありがと・・・」 えへへ、と嬉しそうに。小さくなって奏は微笑む。 (本当、可愛いんだから) フフフッと優しく微笑みつつ、冴子の裏の顔は冷たい微笑を浮かべていた。 (社長は、自業自得。) ***** 抱き寄せられてキスされて。優しく髪を撫でられて・・・。 でも奏は、それがただの大人の気まぐれや、からかいなんだと思い込んでいた。 だって自分は男で。相手も男で。気まぐれやからかい以外に、理由なんて無いと思うから。 それにあの男にとって、自分はただの動物なのだ。 一度感じた印象を奏は根深く居つかせていた。 でも、奏にだって分かってることはあった。 あの人は、たぶん・・・優しい人間なんだと。酷い奴でも、優しいのだと。 でもそれは、彼がそれだけ自分より大人だから。とか、人間的にきっと優しいんだな。とか思うだけで。 それが自分が好かれているから優しくしてくれているなんて、奏は思いもしていなかった。 人に好かれるのは、嫌いじゃない。さっきの彼女のように好きだって言ってもらえるのも嬉しい。 でも、どんなに優しくても。 あの男は・・・ゾッとするほどに激しく、けれど計り知れないほどに冷たく、容赦のない鋭い眼で自分を見るのだ・・・。 そんな眼差しを向けられている自分でも、優しいとか思うのだから。 やっぱり人として、優しいんだなと思っていた。 ---NEXT |