「このポスターを各階に貼ればいいんですか?」

午後の仕事は庶務課の手伝いだった。

もう一人、課の人と分担で各階に貼っていきながら、最上階のフロアを最後というところで。


「ぐ、うぬ〜っ・・・なんだよ、この〜〜っ!」

べたっとポスターと一緒に掲示板にへばりつきながら、奏は悪戦苦闘していた。

爪先立ちで手を懸命に伸ばしてもあと数センチ足らず、ポスターに画鋲が刺せないのだ。

天井が高い分、掲示板も他の場所より少し高く。広い分、ポスターも特大を貼るようになっていて上にあわせないと下が入らない。

さっきから画鋲をポロリと落としてはベランと垂れるポスターを頭に被る繰り返し。

「なんだよ〜〜!!170cm無い奴は貼るなとでもいいたいのかっこのやろーーーっ!!」

うぐぐ〜〜っと文句を言いながら、顔を真っ赤にして諦めない。

あと2cmくらい。168cmの奏には、嫌味なくらいじれったいセンチメートル。

だから余計に悔しくて、何としても一番角にビシッと画鋲をかっこよく刺したい!

痛くなるほどに震えながら靴の先だけで立ち、攣りそうになるくらいピーンッと指を伸ばす。

あと少し・・・・・・・・・というところで、ズルッと靴がバランスを崩した。

ズズズッとポスターごとズレ落ちそうになったその瞬間、身体を何かに引き寄せられる。


「−−−大丈夫ですか?」

すうっと遠ざかるポスターをぽかんとした瞳で見つめている奏の頭上で、静かな声がした。

見上げてみれば、涼しげな印象を与える色素の薄い眼が自分を覗き込んでいる。

「要さんっ!?」

奏はびっくりして目を瞬かせる。

要は、奏のお腹にまわしていた腕を離すと、画鋲をいとも簡単にポスターの角に突き刺した。

「あまり無理はしないで下さい。」

「あ、はは・・・・・・はい・・・」

奏は軽く頭を掻きながら誤魔化し笑いを浮かべていたが、眉一つ動かさない冷静な顔で見つめられてしまっていては素直に頷くしかなかった。


整えられた顔立ちに細い髪質。

冴子が深い色合いのスーツを好み似合うのとは反対に、薄く淡い色が好み似合う彼が、もう一人の秘書で冴子の弟である要である。

無表情で、声の質も顔立ちもどこか冷淡で冷たい印象を受ける。

けれど、奏はこの人がそれだけじゃないのを知っていた。


「服は、どうしました?それに髪も、いつもより跳ねて・・・」

さらりと髪を梳かれて、奏は首を傾げた後、思い出したように頭を触る。

薄茶色髪の毛先がピョコピョコ小さく跳ねているのはいつものことだけど、微妙に跳ね具合がちょっと大きくて寝癖みたいになっていた。

「あ、うん。ちょっと濡れちゃったんだ。急いで乾かしたから、跳ねてたかも」

あははっ、と奏が笑えば、ほんの少しだけ、静かな眼差しが和らいだ気がした。

その眼差しを目に留めて、奏はふと、ぼんやりと思う。


茶色がかった瞳が、静かな顔が・・・


何故だかいつか、笑ってくれるのを自分は望んでいたような気がする。



そう・・・冴子さんと、同じように−−−





ガラスの向こう。





二つの横顔。





振り向いたのは、誰かの、一つだけの笑顔だった・・・。









「奏君?」

「えっ!?」

心配げな声にハッとした。

気づけば要が顔を覗き込んでいて、奏は我に返ってポカンとしている。

「どうしました?」

「え?・・・あー、なんだろ・・・?」

よく分からない。

何かを思い出していたような気がしたけど・・・なんだっけ?

はて?と奏が頭を捻ると、要の後方にある秘書室のドアから冴子が出てきた。

「あら、奏くん。ちょうどよかったわ!少し中で待っててもらえるかしら?」

「え?」

「クリーニングに出していた服が受付に届いたらしいの。」

取ってくるわね、とカツンとハイヒールを響かせて歩き出そうとする冴子を奏が止めた。

「いいよ。俺取ってくるから!」

もともと自分がぼんやり歩いてたのがいけないんだし。

そう、奏は苦笑した。





「・・・少し、様子が変ですね」

姿が見えなくなった後。今さっき一瞬だけ見せた苦笑に違和感を感じて、要が怪訝に目を細めた。

どこか寂しげに見えたのは気のせいだろうか?

「やっぱり何かあったのかしら?」

やっぱり、という言葉が気になって視線をやれば、冴子が頬に手を当てて眉を寄せている。

「受付から連絡があって降りてきたときも、あの子、変だったのよね・・・」

頭からずぶ濡れになって。髪から零れ落ちる雫も拭わずに、あの子はただ真っ青な顔で立ち竦んでいた。

声を掛けて顔を上げた時には、何でもないように困った顔で笑っていたから、何も言えなかったけれど。

車に水を跳ねられたくらいであそこまで濡れるのもおかしいと思っていた。

「勝手に外に出ていたのがバレるだけでも厄介なのに・・・」

それで何かあったなんてことになってたら・・・。

「辛く当たられるわよ、奏くん・・・」

「しかもずぶ濡れで・・・風邪をひかなければ、いいんですが・・・」


「・・・・・・」


「・・・・・・」


なんとなーく、いやーな空気があたりを漂いだして。


互いに視線をあらぬ方向へと向け、二人は無言で何事も無かったかのように仕事に戻ることにした。



こういう時は、それ以上何も言わないほうがいいのだ。

というか、触らぬ神に祟りなし。

何をやっても、結局矛先は全部奏にいってしまうのだから。

下手に触れて厄介事を肥大化させるよりは、いいと思う。



・・・・・・たぶん。









「ありがとうございます!」

受付でクリーニングから帰ってきた服をその手に受け取った。

丁寧にハンガーに掛けられてビニールに包まれている服を腕に掛けようと目にして、奏は思わず立ち止まってしまった。


ふっと静かになる思考。


口の端を持ち上げて。


笑えもしないのに、祝福の声と笑い声だけが耳の奥で消えない。


ぎゅっと腕に力を込めて。


胸の中のビニールがガサガサと音を立てた。


擦れ合う音が耳に響いて。ハッと我に返って、抱える腕に力を込めた。


大丈夫。


少しだけ思い出して、ちょっと不安になっただけだ。


振り切って、歩き出そうとする。



「・・・何だ、その格好は」

と、聞き覚えのある低い声が背後で上がった。

振り向けば、高村が腰に手を当ててこちらを見据えていて。

「ギヤャッ!?」

その鋭い視線といつでも漂わせている威圧的な空気に、奏は思わずビビッと肩を震わせて短い悲鳴をあげていた。

目が合った瞬間にそんな反応をされれば、誰でも不機嫌になるもので。高村もピクリと眉を吊り上げる。

ただでさえ、自分の知らぬうちに奏の服装が変わっていて気分が悪いというのに。

「び、びびった・・・」

苛立つ思いをよそに、奏はビニール袋を胸に抱きしめて深い溜息をついている。

「・・・気配からして怖いんだから、いきなり出てこないでほしいよな・・・」

「気配で怖いなら、近くにいるのも気配で察しろ」

ぼそりと呟いた言葉に無茶な答えを返されて、奏はじとりと高村を睨む。

「そんなことできるわけっ・・・!?」

が、いつの間にかすぐ近くに高村の姿があって、思わず息を詰まらせる。

20cm近く身長に差があるため、どうしても見上げる形になってしまい、ちょっと動くだけで触れ合うほどの距離にまで立たれると

覆いかぶさってきそうで奏は思わず身体を仰け反ってしまうのだ。

しかも何故か、恐い顔でじっと見下ろされている。

「な、なんだよっ!?」

ザッと一歩、後ろに後ずされば、冷たい手が頬に触れてきた。

「泣いたのか」

どこか厳しい声で言われ、一瞬ギクリと顔が強張る。

でもすぐに我に返った様子で奏は触れてくる手をふり払い、睨み付けた。

「泣いてないっ!!」

ぶすっとして、そのまま背を向けてエレベーターまでズンズンと歩いていった。

一瞬の硬直も。怒ってみせるのも。それはそのまま肯定を表しているようなもので。

高村を取り巻く空気がますます張り詰めていく。

その恐ろしさにロビーにいた社員は皆、真っ青な顔で固まっていた。



こちらもやはり、「触らぬ神に祟りなし」である。



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