それは、今から3日前の出来事だった。


近くの喫茶店でアルバイトをしている奏はホテルのお客はもちろん、従業員にもよく、お昼に店主自慢の手作りサンドイッチを届けていた。

ヘルシーなものからボリュームのあるものまで。美味しいサンドイッチをデリバリーできるというのもこのホテルの評判の一つで。

3日前もいつもと同じようにそれを届けにきたのだが、その時見てしまったのだ。

このホテルに勤めている知り合いの女性、由梨が、お客の一人に言い寄られているところを。

言い寄るばかりか、セクハラまがいのことまでしでかし始めた男に奏は我慢ができなかった。

困ったように、怯えたように瞳と肩を震わせる彼女をただ守りたくて。

助けてあげたくて、その一身で、男を殴り、その男と静かなロビーで怒鳴りあった。


まさかその出来事がとんでもない出来事へと発展することなんて、その時は予想もしていなかったのだ。



「可哀想だとは思うが。だからといって、お前が間違ったことをしたわけじゃないんだ。あまり深く考えるな」

ホテル側としては、それしか方法がなかったのだ。

納得のいかない部分があったとしても・・・久我にどうにかできる事態でもなかった。

柔らかな加減で背中を叩いてくれる久我に顔を上げれば、見えた瞳の奥は優しげで。

奏は重い心を少しだけ軽くして、小さくコクリと頷いた。

素直な仕草に久我も安堵の表情を浮かべる。

けれど彼は、知らなかった。



その後、実は物凄く理不尽な出来事なんじゃないかと、奏が一人怒りを込み上げていくことに。





**********





最低だっ!最悪だっ!こんな会社っ!!

でっかいビル持ってるからってなんだよっ!

契約一個ダメになったくらいでホテルを脅すなんてどうかしてんじゃないのか!?

しかも社長直々っ!?

バカいうな!訴えるならセクハラしたヤツ訴えろっ!ハゲーーッ!!!


キッと目の前のビルを睨みつけながら、奏は心の中で叫んだ。


最後の言葉は、社長といえばたぶんそう!という彼の偏見だった。


ホテルの従業員をこっそりと捕まえて聞き出した会社名と住所の書かれた紙をグシャリと手の中で握り潰す。

強く握りこめた拳に決意を込めて。奏はビルの中へと入っていった。



よくよく考えてみれば由梨は被害者で。辞める理由なんてないはずなのだ。

そうして久我に内緒で、こそこそと話を聞いて回った奏は詳しい話を知ってしまった。

殴った相手が訴えるならまだしも、その連れの人間の会社側が訴えますとホテルを脅してきたらしい。

奏に殴られ、怒った男はなかなかの偉い人物たったらしく。

あの時一緒にいた人間の会社は大きな契約を破棄され、多大な損害を被ったと、その責任をホテル側に請求してきたのだ。

信用第一なホテルにつけいって脅すばかりか、直接ホテルへと出向いたそこの社長は、あろうことか奏の大切な人、

由梨を辞めさせるように言ってきたのである。金の変わりに。

だいたい被害者を辞めさせるなんて、鬼や悪魔のすること。奏じゃなくても、許せぬ事態である。


「会わせて下さいっ、社長に!!」

一度怒ると他のことに目がいかなくなってしまうのが少しばかり奏の悪い癖だった。

深い深呼吸の後、威勢良く叫んだ奏の台詞にどんな時でも笑顔を絶やさない受付嬢もこの時ばかりはポカンとしてしまった。

青年とも少年ともいえそうな若い子が私服で、しかもその顔は至極真面目で真剣な眼差しをしていて。

呆気に取られるのも無理はない。

それでも彼女は気を取り直すように、奏に声を掛けた。

「アポイントはお取りですか?」

「・・・・・・」

一瞬、奏の表情が固まる。

しばし無言の後、

「あ・・・あいぽんと・・・!」

か細い声がした。

ちょっと言い間違えているけれど。奏だって、アポイントの意味くらい知っていた。

(ああっ!そそ、そうだった!)

ガーン、と衝撃を受けたように奏の肩が落ち込む。

やっぱり、会社の前でピカピカの運転手つきの大きな車を待ち伏せしていたほうがよかったんじゃないか・・・。

そんなこと今更気付いたって遅いけれど。今は引き返す気力もない。

けれど、どんよりと表情を曇らせて項垂れる姿を見ていた受付嬢の心は揺らいだ。

可哀想で、可愛らしくて。

受付嬢の女性は、苦笑を溢しながらも受話器に手を掛けた。

「それでは・・・社長に確認してみましょうか。」

「え、あっ、お願いします!ありがとうございますっ!」

途端に明るい笑顔を浮かべてぺこりと頭を下げる奏に、受付嬢の顔にも笑顔が浮かぶ。

ふふっと優しく微笑まれ、お名前は?と聞かれた奏は「水島です。水島奏」と言った後で思った。

(−−−ハッ!普通に名前言ってどうすんだよっ!確認してもらったってこれじゃ通してもらえるわけないじゃないかぁーーーっ!!)

両手で頭を抱えたくなる心境である。

もう、ホントどうしよ・・・とションボリする奏だったが、何故か事は思わぬ方向へと進んだ。


「水島様、社長がすぐにお会いになるそうですよ。」


「え・・・えぇぇっ!?」


よかったわね、と、笑顔で付け加える受付嬢の言葉に、奏が叫ぶのも無理はなかった。





俺って今日、ついてるのかな?

静かに上っていくエレベーターの中、奏は一人首を傾げた。

上手くいったことに喜びつつも。なんだか妙なものを感じて。

もしかしたら、ここの社長は物凄く奇人変人なヤツなのかもと思った。


今更思うのもなんだけど。

社長に会って、自分は彼女のクビを撤回することが本当に出来るのだろうか・・・。

そんな不安が一人きりの、狭いエレベーターの中で大きくなる。

狭い空間に一人でいるのは、あまり好きじゃないから。 広い空間でも一人でいるのは、好きじゃないけど。

ふいに浮かんだ思考に頭を振って、奏は急いでべつのことを考える。


『・・・仕方なかったのよ。』


ここにくる少し前、少しだけ寂しそうな笑顔で言っていた彼女の言葉を思い出した。


ホテルの仕事がずっと昔から夢だったことも。とてもあのホテルと仕事が好きだったことも知っていたのに。

それを自分が奪ってしまった。

ここの社長が悪徳だと責めたとしても。その原因を作ったのは、自分に違いはないのだから。


『奏くんの所為じゃないわ。・・・助けてくれて、嬉しかったのよ』

傷ついた気持ちを隠して、優しい笑顔でありがとうと言ってくれた人。


「しっかりしろよ!奏!!」

気を取り直すように奏は拳を握った。


ここまで来たんだ。やれるだけのことはやらなきゃだ。

門前払いじゃなかったんだし、可能性はあるかもしれない。

前向きに、強気で行こう。

おうっ!と、握り締めた拳を、強く、強く天に掲げた。







運命なんて、どこに転がっているかなんてわからない。

どの出会いがそうかなんてのもわからない。

ただ、思いもよらぬ方向に物事が走りだすのはよくある話で。

ハゲだと勝手に社長像を作り上げていたのが、実はとんでもないことだったり。

その場所に行っただけで、人生が一変してしまうなんてことは、

その場所に行った後にしかわからないことだったりするのである。



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