決意を固める奏を乗せて、エレベーターは最上階へと着いた。 降りた先には広々としたスペースがあり、柱のそばには背の高い観葉植物が置かれている。 緊張した面持ちでそのフロアに足を踏み入れた奏はキョロキョロと辺りを見渡して足を進めた。 周りを見渡してもただ静まり返った静かな空気が流れるだけ。 人の気配すらなさそうな雰囲気に首を傾げるけれど、立ち止まり、改めて目を向けた奏の目の前には地上からは見ることのできない景色があった。 「−−−うわ・・・っ!」 駆け寄って手摺りに手を掛け、驚きの声を上げる。 一面がガラス張りになったそこからは、外の景色がよく見えて。 さすがに下を覗き込む勇気はないけれど、少し見上げた先には地上では見ることのない景色が広がっていた。 綺麗な、空だ・・・。 ふと、空を見つめていた奏の瞳が微かに揺らいだ。 柔らかく微笑みを描くその表情は、どこか切なげで・・・。 季節は5月のはじめ頃。 どこまでも晴れた青い空が広がってる。 何もかもを包み込むような大きな空を見つめていると、わけもなく、ただ、思った。 ・・・大丈夫、だと・・・。 どれくらい空を見つめていたのか。 「気に入ったか?」 ふっと、低い声が耳元で聞こえた。 「え・・・?な、なんっ・・・?」 突然の声に振り向こうとして、けれど自分のすぐ後ろに男がいることにようやっと気づく。 右手を手摺りに掛け、覆いかぶさるようにして男は立っていた。 狎れなれしいような台詞を吐いたが、奏にはまったく覚えのない男だった。 振り向くこともできないほどに男との距離は近く、奏は慌てて空いている左側へと体をずらし、抜け出たところで振り向いた。 「だっ・・・だれだよ、あんたっ・・・!」 手摺りに背中を押し付けて、奏は声を上げた。 その声が微かに震えてしまうのは、すぐそばに立つ男の存在のせいだ。 男は口元に笑みを浮かべて、手摺りから手を離した。 奏はぎゅっと手摺りを握り締めて、思わずゴクリと唾を飲み込む。 苦手な雰囲気を持った男だった。 奏よりも20cm近くは高い背丈に華奢な奏とは比べ物にならないほどに男らしい体格。 見るからに高級そうなスーツを着ていてもセンスの問題か、嫌味もなくてどこか洗練された感じを醸し出している。 それでいてポケットに片手を入れて立つ様さえも自然と似合ってしまうほどに、その男は驚くほどに全てが整っていた。 軽く後ろに流した黒髪に切れ長の鋭い目は研ぎ澄まされた光を放つ。歳は20代後半か30代前半の大人の男で。 きっと女性なら誰でも憧れ、胸を高鳴らせ、焦がしてやまないだろう。 けれど、その男の雰囲気はどこか普通とは違う気がした。 笑みを浮かべていても、どこか威圧的で・・・。 底が知れない、容赦のない。まるで、獲物に目を光らせる肉食獣のような恐ろしさがある。 怯えているのに気づいているのかいないのか、男はただじっと奏を見つめていた。 蛇に睨まれた蛙のように、奏は身を縮め、逃げ出すこともできない。 それが悔しくて。あまりに情けなくて。背中に流れる冷や汗の冷たさにぞおっと鳥肌が立ちそうで。 な、なんだよっ。 お、おおおおれは、見世物じゃないぞ!動物園の動物でもなけりゃ、美術館の彫刻でもないんだっ!! そう、叫びだしたいのだけれど。 震えて、正直声も出そうにない。 でも、いったいぜんたい、この男はなんだっていうのだろうか。 人のことをジロジロと眺めたりして。・・・なんだよ、失礼なやつじゃないかっ! むっとして。思わず、睨み付けてみれば。男はようやっと気づいたというように、奏と視線を合わせてきた。 「どうした、黙りこんで。俺に話があってきたんじゃないのか?」 「え?」 問いかけられても、意味がわからないと首を傾げる。 奏が話があるのはハゲの社長だ。 「・・・俺・・・社長、に・・・」 口に出して、嫌な予感がしてきた。別の意味で冷や汗が流れてくる。 ここはこの会社の最上階で。一番上にあるのは、大抵が社長室で。 確かエレベーターの中にあった案内板には最上階には社長室と秘書室しかなく・・・・・・この異様に威圧的なのが秘書なわけがなく。 「・・・・・・・・・・・・・・」 ・・・いやいや、社長といえば、ハゲなはず。 きっと薄いはず。ついでに小太りだったりするはず。そうじゃなくても、こんなに若いはずは・・・。 ああ、そう、そうだ。社長を守るボディーガードとか。 うん、そう、そう、体格いいし、こんなに恐いんじゃあ、そこらのヤクザもビビッて逃げるさ。 いったいどんなものから、知識を得ているのか。微妙に奏の常識力さえも心配になってくるのだけれど。 すぐにその変に凝り固まった社長に対する偏見は打ち砕かれることになった。 「−−−社長。」 声がして。チラリと男の視線が鋭くわずかながら動いた。 見やれば、一人の女性が明らかにこちらに向かって軽く頭を下げている。 「!?」 な、なんてこと! 奏はショックに体を仰け反らせた。 ハゲじゃないなんて聞いてないぞっ俺っ!! 勝手に自分で作っといて、そんなこといわれても知らぬことであるが。 ずるっと背中を手摺りに擦らせて、奏は咄嗟に距離を取ろうとした。 秘書らしき女性が丁度顔を上げて何気なく視線があう。 その瞬間、奏は不意に何か・・・とても懐かしいものを思い出したような気がした。 ・・・あれ? それは一瞬だけ浮かぶ、不確かな記憶のようなもの。 ガラス越しに見た、二つの横顔と振り向いた、笑顔。 ・・・あれは・・・、誰だっただろう・・・。 無意識に、奏は心に問いかけていた。 ただ呆然と立ち尽くし、その女性から目を離さないでいる。 きつくないワイン色のスーツに茶色の長い髪を纏め上げた女性。 とても綺麗な人だったけれど。奏が本当に見ていたのは、彼女ではない、なにかの記憶だ。 どこか懐かしい。でも・・・覚えのないもの。 現実にそこに立つ女性が小さな笑みを浮かべたのにハッと気がついて、奏は我に返った。 あれ・・・?なんだろ、今の・・・? 我に返ったと同時に妙な違和感が頭の中を流れる。 ぼんやりと霞んでいた思考が現実へと引き戻されると、自分がなぜ呆然としていたかもわからなくなっていた。 一瞬浮かんだ『何か』も、よく思い出せない。 不可思議な感覚に思わず首を捻って考えてみるけれど、よくわからなかった。 ---NEXT |