第二話 はじまり



慌しいオフィスの午前中。

「奏君、これも10部ずつコピーしてまとめてくれる?」

ディスクに手をついて、一人の若い女性が書類を片手に席を立った。

「あ、はーいっ!」

コピーの操作ボタンをパチンと押し終えてその女性の下に駆け寄った。

「よろしくね」

「はい!」 ニッコリとした笑顔に奏は書類を胸に元気な笑顔を浮かべた。





「お疲れ様ー。」

はい、とコーヒーの入ったカップを奏に差し出した彼女は、自分のディスクに腰掛けクルリとイスを回した。

肩より少し上で切り揃えられたストレートな黒髪に、爪には鮮やかな赤のマニキュアが映える。

まさにキャリアウーマンといった雰囲気の女性、菅野美咲(すがのみさき)は、背もたれに背中を押しつけ、伸びやかに腕を伸ばした。

「奏君がきてくれて本当仕事がはかどって助かってるわ〜」

「いいえっ・・・」

首に手を当ててコキコキと動かしている美咲の仕草を見ていれば、その大変さも言葉以上に伝わってくるもので。

奏は心配げな顔で美咲の肩を見ながら、首を振った。

自分が手伝えたことなんて、コピーを取ることと書類をまとめることくらいで。まとめるといってもホッチキスで束ねるだけで。

「パソコンとかもっと詳しければよかったんですけど・・・」

こんな風にコーヒーだって入れてもらってしまっている。

「そんなことないさ」

コーヒーを見つめて沈む奏に、美咲とは通路を挟んだ後ろのディスクに座る加藤将人(かとうまさと)が顔を覗かせる。

短い髪と爽やかな顔立ち。スポーツマン的な感じのするなかなかの好青年である。

「君がきてくれてから、ずいぶん仕事がはかどってるしね」

二人は企画課で、ここはあの男−−−高村の会社だった。



「でも、こんなに色々仕事を頼んじゃって怒られないかしら」

う〜む・・・と顎に手を置いて思い悩むそぶりを見せる美咲に奏は手を振って笑った。

「全然っ。沢山仕事をさせたほうがいいんです!仕事がなくてボーっとしてたら、怠けてるって俺の方が怒られるだろうし」

「え?そうか?」

「・・そんな感じには、見えないけど・・・」

奏の言葉に加藤は少し驚いて、首を捻る。

美咲も信じられないな、というような顔をした。


『あんな雰囲気で』

そんなことで怒るなんて、想像もつかない・・・。


何かを思い出しているのか、考え込む二人に奏が首を傾げると美咲は思わずふふっと笑った。

「それにしても、あの社長に君みたいな甥っ子がいるなんてね」

楽しそうに笑っていう美咲とは反対に、奏は一瞬で表情を固めた。

「そうだよな〜」

同意見だと頷く加藤に。

「そ、そそう・・・かな・・・?」

奏は引きつった笑みを返すのが精一杯だった。

だって本当は、

「冗談じゃないっ!なんであんな奴と親戚にならなきゃならないんだぁっ!」

と、叫び出したくてしかたがないのだから・・・。



何故、甥っ子なんてことになっているのか。そもそも何故、奏が高村の会社で働いているのか。

それは、今から二週間前の。

奏が初めてこの会社に乗り込んでいった日の、あの時まで遡る・・・。





**********





「あ、あの・・・さ?」


「・・・ん?」


いや、あの。


「ん?」じゃなくてさ。


な、なんで俺・・・こんなことになってんのっ?



ダラダラと冷や汗を流しながら、奏はパニック寸前だった。

普通じゃないことが、自分に降りかかっている。

背中を壁に押さえつけられ、前には自分よりもふた回りくらい違うような大きな身体。

腰にはがっちりと腕が回されて。吐息がかかるくらい近くに、男の顔がある・・・。

それプラス、なぜか髪やら頬やらにキスの雨がふりまくっているのだから、パニックにならない方が可笑しいと思う。

触れられるたびにビクビクして息を呑んでいるものだから。

しかも物凄い近くに顔があって、まともに息もできない。

強く抱きしめられて、もう、正直、息苦しいんだけどっ!?

「・・・はな、れろよっ・・・っ!」

腕の中から逃れようと身体を捩じらせれば、腰を抱く力が強くなる。

それでも諦めないで顔を背けようとすれば、すぐに顎をつかまれて戻されてしまった。

「俺のものになるんだろう?」

「っ・・・」

囁く声は低く、見据える視線は鋭く険しくて。

肯定以外は許さない。

そうする以外ないのだと。

そう、追い詰めるように高村は奏を壁にぬいつける。

奏はスーツを掴む自分の手を睨みつけて、唇を尖らせた。

「わかってるよっ。掃除のおばちゃんでもビルの窓拭きでも、なんだってやってやるさっ!」

投げ遣りな感じで言葉を吐けば、わずかに腰を抱く力が緩む。

怪訝な顔で眉を寄せたのは、高村の方だった。

「・・・なんの話だ?」

「何の話って、これから馬車馬のように俺をこき使うつもりなんだろ?」

「・・・・・・・・・・・」

思わず、間の抜けた声が出そうになるのを高村は堪えた。

いったい・・・どこをどうとれば、そういう解釈になる?

そう問いかけたかったのだが。腕の中の奏がそれより早く、呆れたように溜息を吐いた。

「まったく。こんな女の人口説くみたいにして俺のことバカにしなくたって、ちゃんと自分の責任くらいとれるんだからなっ」

なんでこんなにバカにされなきゃいけないんだよ・・・と、

ぶっすりとする奏の顔をまじまじと見下ろした高村は、思わずその肩に顔を埋めた。

「えっ?おい、なんだよ?」

突然両手で抱きすくめられて少し慌てれば、なにやら相手の肩が揺れている。

「・・・っ・・・クッ・・・」

少しして奏の耳に届いたのは。くぐもった、堪え切れない高村の笑い声だった。

笑われてることに怒って暴れだす身体を強く抱きしめながら。高村はひとしきり笑って、小さく息を吐く。

自分で、自分の中の感情に戸惑う。

抱きしめている小さな身体。その柔らかなぬくもりから、自分で思っている以上に手が離せないでいる。

奏が言うとおり、冗談に出来たほうがマシだったのかもしれない。

まだ子供のような。しかも男に。

触れずにはいられない、自分を・・・。

けれど一度触れ、腕の中に閉じ込めた存在を、今更・・・。

それは、無理な話だった。


「・・・バカになど、していないさ・・・」

「−−−んっ!?」

こんな風に唇を奪うことすら、たまらなくなるのだから。


壁へと押さえつけ、奏へのキスを深くする。

舌を差し入れ、抵抗しようと咄嗟に歯を食いしばる奏に薄く笑い、高村はくびれから腰に手を回して、背中を撫で上げた。

「んぅっ・・・!」

途端に腕の中の身体がビクンッと震え上がる。

その反応を可愛いなどと思いつつ、緩んだ隙間から口内へと入り込んだ舌は逃げようとする奏の舌を絡めとっていった。



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