それなら、とことん・・・ 手懐けようか――― そう、口元に意味深な笑みを浮かべて自分を見やる男に、奏は何となくビクついた。 「なっ、なんだよっ」 落ち着かなくて、片手で自分のシャツをくしゃりと掴む。 何かを思わず掴んでしまうのは、無意識な癖のようなものなのだろうか。 それはひどく幼い子供を連想してしまって。それを見ていた高村は溜息混じりに苦笑して、立ち上がった。 椅子に掛けておいたスーツを手に持ち、奏の背中に手を回す。 軽くトンと背中を押されて、奏は訳がわからずに首を傾げた。 「ここで働くなら、スーツが必要だ。」 「え・・・」 だからこれから買いにいくのだという彼に奏は途端に困った顔をして立ち止まる。 「スーツって・・・社員とかになるってことなのか?」 自信なさげに呟く。 「うちの会社は警備も掃除も他の業者が入っているからな。・・・部下になるんだろう?」 「・・・でも、さ・・・。俺のせいで契約とか駄目にされちゃった社員の人もいるんだろう?」 たぶんきっと、その人は俺のことを怒っているかもしれない。恨んでいるかもしれない。 そう思われることを自分はしたのだと、高村の言葉で奏は思い知らされたのだ。 それなのに同じようにスーツを着てこの場所に立つなんて自分には出来ないと思った。 掃除のおばちゃんをするのとは、重みが違い過ぎて・・・。 「・・・・・・・・・・・・」 表情を曇らせる奏を見下ろしながら、高村は気分悪げに顔を歪めた。 思っている以上に損害のことを気に留めていることには少し罪悪感を感じるけれど。それ以上に、他の人間を。 自分以外のものを、気にかけていると思うだけで癇に障る。 苛立たしい気持ちを抑えつつ、口を開いた。 「その社員なら、辞めた。」 「えっ・・・?」 傷ついた顔で奏が顔を上げる。その表情も気に入らない。 苦虫を潰したような顔をして視線を逸らす。 視界に入れていたら、自分の感情が我慢できずに切れてしまいそうだった。 「ま、さか俺の・・・」 「別にお前の所為じゃない。ちょうど他会社から引き抜きがあっただけだ」 「・・・ほんとうかよ?」 そんなの出来すぎてる・・・と疑いの目を向ける奏に高村ははっきりと頷いた。 「ああ。あんなことで契約破棄されるなんて、会社自体に問題があるんじゃないのかと言ってな。喜んで辞めていった。」 もちろん事実だ。嘘はついていない。 ただ、引き抜きに少し手を回したが。 厄介ばらいに丁度いいとこちらから他社に話を持ちかけて、引き抜きさせるよう仕向けただけである。 『あの会社』を出せば、そのくらいのことは容易いのだから・・・。 恨みを買うことや妙な騒動を引き起こすのも、お互い御免だからだろうが。 「・・・なんだ、それ・・・。」 奏は呆れた溜息を吐く。 あんまり信用されてないのな。 まあ、社長が奇人変人な奴だからしょうがないよな・・・。 と、密かに失礼なことを考えて奏は納得したように頷いている。 その腕を掴み、スーツを買いに歩き出そうとしたが奏は再び何かを思い出して慌てた。 「だっ・・・駄目だ・・・無理だって・・・」 「今度は何だ・・・!」 まだ何か気になることでもあるのかと、声に苛立ちが篭る。 怒っている高村に奏は一瞬怯えるけれど。意を決したように、自分の腕を掴んでいる彼の腕に手を掛けてギュッと握った。 「お、俺っ・・・高校、行ってないんだ・・・」 口ごもりながらボソリと言って、悔しそうに唇を噛む。 高校を出ていないことを馬鹿にされるとでも思っているのかと、高村は軽く溜息を吐く。 「だからなんだ?」 高校に行っていないことは、とっくに調べて知っていた。 生活環境と金銭の問題が理由だということも。 「べつにお前に契約を取って来いと言うわけじゃない。」 「で、でもさ・・・」 こんな大きな会社で働くなんて、と不安げな顔をする。 「コピーの使い方は?」 「え・・・それくらいなら、コンビニのバイトで・・・」 「なら、問題ない。」 言い切る彼の言葉に奏は驚いたように目を見開いていく。 あと、一押しだろう。 「ビル自体はデカイが、それほど大きな会社ってわけでもない。立ち上げて十年も経ってない会社で最小限の社員しかいなくて ネコの手も借りたいほどだからな。雑用や地味な仕事は腐るほど転がっている。」 だから、お前でも十分なのだと。 働けるのだと、そう、言ってくれている高村の言葉に、奏の顔が綻ぶように笑顔になっていく。 「本当に?働いてもいいのかっ?」 興奮したように浮き足立って、くいくいと袖を引っ張っている姿は本当に嬉しそうで。 その笑顔に高村の胸が、ドキリと鳴った。 それはなんとも言い難い、鼓動の音で。 しばし見とれて。掴んでいた腕を引き寄せ、軽く口づけ、腕の中に囲う。 「なっ・・・なんだよっ・・・!?」 逃げようとする奏を強く抱きしめるほどに、高村は胸が詰まるのを感じた。 「少し、大人しくしていろ・・・」 零れた声は掠れそうなほど。 願いにも似た響きだった。 たのむから大人しくしていろ。 どんなに逃げても・・・離せそうにはないから・・・。 けれど、もう、 (もうこれは・・・離す離さないの問題ではないな・・・) 心の中で呟いて、彼は小さく苦笑した。 それがどういう意味なのか、今は深く考える余裕も無く。 ただ、信じられないほどに・・・胸が、熱かった。 その時の彼は、生まれて初めて・・・溢れ出してしまいそうなほどの感情があることを知ったのだった。 それがなんなのか。胸に溢れるその想いのわけを、意味を、彼が知るのは・・・ まだ少し、先のことである。 ---NEXT |